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かの夫人に連れられてやってきた二人。彼、ダニエルの知らなかった頃のあの人。若い姿なのはこれからの激務のためだろう。隣の金髪で、やや茫洋とした感じの青年も背が高いが、若い。
「この二人なんだけど、よろしくね。聞いてるレポートどおりに仕上げて。踏破不全なら最初から全部やり直しで、仕上がるまでいくらでも時間かけていいから」
「場合によっては一月かかりますよ」
「そんなアホさらしたら、ヒマラヤ登山にでも叩き込むからいいわよ」
「…ご本人さん達何も知らない」
ダニエルが視線を向けた。
「ヒマラヤは知ってる…選択で案件見せられ、こっちにした」
小柄な彼が冷や汗混じりで言う。
「指の一本や二本どうってことないわよ」
再生医療の進んだこの世界ではそうだが、前時代人の二人にはぞっとする話だ。
「派手に落ちて医者呼ぶ事態は避けてね、では私はこれで」
アルデモード夫人はそう言うとさっさと立ち去っていった。
「殿下」
「鬼っっ、チャンドスもすごかったがそれ以上だ、あの人は」
「そうでしょうね、よろしく、ここのレンジャー、ガイドを兼ねてます、ケリーフィールドといいます」
「よろしく頼む」
あの人は気軽に右手を差し出した。握手の挨拶も手慣れてきた様子。其の手を握り、軽くふり、背の高い人にも振り向いた。
「よろしく頼みます」
「お名前確認します、通称・ウッドストックのエドワード、今の名前は」
「アンジューの名字は使ってない」
「はい」
「トマス・デ・ビーチャムです」
先代のウォリック伯爵、そうダニエルは意識する。ダニエルの知るウォリック伯爵に本来は…そう思ったが、その考えは途中でやめた。あの大司教に見せられ、いくらか読めるようになった頃、伯爵の号とウォリックの名前だけは今も覚えている。
「君は…どこの時代から」
訛りでわかったらしい。
「十四世紀です、カンタベリー、レディチャペルの地下墓所からです」
その名前に彼、殿下と呼ばれる人は目を見開いた。
「なんで…」
「ああ、ある人の墓のそばで死んでたそうですよ」
「ある人、ね」
「ええ、エドワード三世陛下の王子の墓」
顔色が変わった。
「おまえ、私の宮廷にいたのか」
「さて、どうでしょうね、今日のコース説明です、お読みください」
ドサッと手製のパンフレットを手渡す。
「読み終わったら、用具の取扱とローピングを学んでいただきます」
「無駄話か」
「少なくとも午後三時までに基本コース五本は片付けてもらいますので」
トマスが岩の図解をかなり入念に見ていた。
「これ…」
「両手両足使えば登坂可能です、それがなにか」
「よじ登る、ということですか」
「ええ、簡単ですよ、基礎さえ覚えれば」
「基礎、ですか」
「どんな状況でも対処出来るように、それが訓練の目的です」
「サハラには行ってきた」
「水の使い方、ご存知のようですね」
さっと彼は用具の元に踵を返した。見知らぬ用具が並んでいたが、唯一、ロープだけは理解できた。
「船乗りのローピングは知ってますか」
「いや」
「では、そこからですね。机上学習になります」
彼は再生業者にまわして作り直し寸前のロープを取り出し、スイスアーミーナイフで適度な長さに切り分けた。キャンプ用の椅子に三人で座る。キャンピングカーの日よけがかかる平らな地面に椅子とテーブルをダニエルは並べた。
「ノットという数え方は知ってますか」
「いや」
「船乗りはノット、結び目を等間隔で作って船の速度を知ったそうです、その結び目がこれになります。8の字をロープがたどる結び目が登山家の基礎の結び方になります、エイトノットといいます」
登山家の基礎結び。お祝い水引の結びにも似ている。ある方向からでは解けるけど、別のやり方では解けない結び方なので、ロッククライマー必須。もちろんボーイスカウトでも習う。農業でも使う人がいる。そんな結び方もかなり種類があった。その中でもロッククライマー使用頻度の高いものを何度も結んでは解きを繰り返した。
「なんで、自分の指まで結ぶんですか?」
この人不器用だ…ダニエルは冷や汗が背中にしたたり落ちていた。
「おかしいな…」
「やり直しですね」
その人から溜息がつい漏れた。かつてウォリック伯爵と呼ばれた人が横でクックッと笑っていた。図体の大きいわりに彼は器用だった。
「そちらの方はこの図解説明で独自にやってみてください」
ローピングの基礎と書かれたパンフをトマスに渡した。
「あなたは最初からやり直しです」
びしっと告げる。
「ちゃんと覚えないと命にかかわりますよ、これは自分で覚えること、セルフレスキューの知恵です、助かりたければ、自分で出来ることはみな自分でするんです、それが自然界に身一つで放り出された時の生きる知恵です」
「解った」
結局基礎ローピングで日が暮れた。
「予定が狂ったーーーーーっっっ」
ダニエルがそう叫ぶ。日程組み直しだーと言いながらタブレットに向かっていた。
「殿下…」
トマスの声。
「頑張る…」(´・ω・`)
野外での食事で簡素なのかと思ったが、豪華だった。ダニエルはダッチオーブンと大鍋、網焼きの道具を用意しており、焼きたてのパン、じっくり煮込んだシチュー、カスタードプディングまであり、炭火で炒ったコーヒー豆を使ったコーヒーもあった。
「すごいな」
「そうですか、王子様の遠征ならこのくらいは」
「ないぞ」
「そりゃ戦争なんてするものじゃないですね」
「部下たちと同じものでなければいらぬと言っただけだ」
「部下って騎士の」
「弓矢隊も歩兵も、だ」
「え」
「贅沢を私がして部下が従うと思うか、食い物の恨みはすごいぞ、ソルズベリーのウィリアムとオックスフォードのジョンとパンの一切れ取り合いしてこいつにどつかれた事あるくらいだ」
「遠慮は」
「あいつらがするもんか、酔っていたし、な」
「なるほど…」
それはそれなりに楽しかった事だろう。遠征の中でのささやかなふれあい。
「まあ、シラフになるとみな身分がありますってくるけど」
王子様はその距離を寂しいと思ったのか。それとも…。
「身分差の距離は気づいたら諦めていたな」
その言葉にウォリック伯だった男が少し、顔をしかめていた。
「ただの貴族と王族は違うってことかー」
ダニエルがつぶやいた。
「俺にはどっちもどっちでどうでもいいけど。奉公して飯食わせてくれるなら」
「は」
「住むところと飯と服さえありゃ何が必要…そろそろ夜の用意しないと。宿泊の用意はこの中に整ってるからどうぞごゆっくり。俺は事務所に戻りますから」
キャンピングカーの裏手につないであった馬の手綱をダニエルは手にし、ヘッドランプを装着した。そのまま馬にまたがると林道を去ってしまった。
「レンジャーはなるべくマシンを使わないこと。客人は安全のためのキャンピングカー使用を特別に許可する…」
パンフレットに書いてあった取り決めをトマスが音読した。
「それで馬か…」
キャンピングカーには動力が付いていた。
「野外用具を全て車内にしまうこと。生ゴミの放置は罰金もしくは立入禁止処分…というわけで、しまいましょうか、冷めた器具から」
「そうだな」
昔なら召使いがいた。二人共。が、今は二人きりだ。ローピング実施訓練の用具から片付け始め、網焼き道具やダッチオーブン、鍋は一番最後になった。
「鍋の洗い方まで書いてあります」
「…そう」
紙に書いてあるやり方をする。まず再生可能用紙で汚れを拭い、再生マシンに汚れた紙を入れる。機械の下から洗浄された紙が排出され、それを台所用品入れにしまう。それから特殊洗浄液で洗うマシンに器具や皿などを入れ、スイッチを押す。汚れは水分と油分で分解され、それぞれの物体になる。水分は飲めるほどの清浄さになり、そばの小川に流されるようになっていた。そういう仕組のマシンはサハラでも扱った事があるが、極端に水を使わない構造になっていた。マシンの種類が違うらしい。
「今度の教官も放置タイプか」
「ですね、自分でなんとかしろ…それにしても、あの教官は殿下の知合だと思われますが、心当たりは」
「最後の食事を持ってきた牧童の子供に似ている気がするが…心もとないな」
「名前を覚えてらっしゃいますか」
「いや…下働きの子で、およそまともに名前呼ばれた事ないような…祖父と二人で下働きしてた子だったが、祖父は四月に亡くなり、身寄りがなかったのだけは辛うじて覚えている」
「調べられるとは思いますが、個人情報管理に引っかかりますね」
「本人に聞くしかないだろう」
「探ってくるだろうな」
ダニエルはそう思った。明日の予定を見直す。なんとしても三度は岩にアタックしてもらいところだが、あの人の不器用さに頭痛を覚えた。
「まあ、ガッツはあるだろうから…」
なんとかなるだろう、そう思うしかない。
「こんな方だったっけ…」
完璧な主人だとばかり思っていたが、ところどころ間が抜けていたというか…。
「そっか、坊ちゃん育ちの天然か」
恐らくは容貌の美しさも純真さも本人は気づいていないに違いない。
「厄介なもんだな…しかし、ウォリック伯もよく付合っているよな、あの人マゾなのかよ」
くしゅんっっ、トマスがキャンピングカーでくしゃみをした。ダニエルがトマスの事、気にした途端であった。
「どうした、トマス」
「なんでも…噂されているのかも」
「そうか」
奇跡は起きるものではありません、起こすものです。神や仏は起こしてはくれません。祈ることはいいことです。ですが、神も仏も何もしません。彼らはただあるだけなのです。縋っても何もしません。彼らは沈黙するのみです。動きなさい、行動しなさい、そこから奇跡は始まるのです。神も仏も助けては下さいません。彼らはただいるだけなのです。祈るだけでは何も起きません。動きなさい、小さな一人でも動けはやがてそれは大きな力となり、必ず奇跡となるでしょう。ダライ・ラマ十四世・説話より・ただしうろ覚え
壁に貼り付けた紙にダニエルはこの説話を古式英語で書き付けていた。ペンを手に自分で書いたのだ。ふと見た映像にあった言葉で、何度も見返して書きつけた。ダニエルの時代の神への考え方とは違っている。仏教の高僧だと言うが、よく経歴はわからなかった。待っているだけでは何も起きない、という考え方は違っていた。こんな言葉があることをきっとあの王子様は知るまい。床を整えるとダニエルは眠りにつくことにした。明日も早い。