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- その館は住む人もなく、ほとんど廃墟に見えた。レイモンドはその当時の衣装を身につけ、隠し扉の前に立っていた。病死する年老いた召使いに問い詰めて、この場所を聞き出した。ゆっくりと扉を開く。そして・・・地下へと下りていった。はっとして見るその姿。机に伏し、書物に囲まれ、生きているのか死んでいるのか解らないほど静かな姿。触れたら壊れそうなほど儚い姿で。その人の夢がふいにレイモンドの脳裏に衣を翻す様にはためいて消えていく。それは追いすがるけれど、届かない想い。なのに、呼びかける声が聞こえる、我が君、お待ち下さい・・・と。
夢で幾度か追いついて目が覚めて
膝を抱いてまた あなたの夢を見る
ラヴェルの屋敷で夢見たのは、先行く人の後ろ姿。王のマント、王冠を抱き、静かに静かに去っていく。それは黄泉の国への道なのか。明るく耀いていた。それは夢だった。妄想から生まれる夢だった。目が醒めると堪えきれないほどの空腹感と・・・そして衰弱していく身体。
「お待ちください、我が君、どうか、私もお連れください・・・」
そう呟いては・・・ああ、もうあの御方はおられない、と呟く。そして・・・あの男がやってきた。
「誰だ」
もう声を出すことさえ、辛そうな人の声。疲れ果て、痩せ細り、それでも書物の間に座り、こちらを見上げようとしている。足下の犬はすでに息絶えている。それも哀れなほど痩せ細っていた。
「フランシス・ラヴェル殿か」
「・・・いかにも」
近づくと彼はこちらを見上げていた。精一杯の力で。
「私と来て頂けませんか」
「どこへ、だ。ヘンリーの手の者か。処刑場か」
「いいえ、違いますよ、不思議野、あるいは夢の世とでも申しましょうか・・・あの御方がお待ちです」
「あの御方・・・」
「ええ、あなたの・・・あの御方です」
「行かぬ。いや、行けぬ。そこに例えあの御方がいらしても、私には会わせる顔がない・・・ヨークは・・・もう」
「血筋で残っていますよ、それでも、ですか」
「では、エリザベス内親王殿下が」
「はい、彼女はやり遂げました」
「なら、今一度・・・会わせて下さい、あの御方に。我が君に・・・」
あらざらむ この世の外の 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな
その男は不思議な言葉を呟いた。意味が解らず首をかしげると英文で告げた言葉。もうすぐ私は死んでしまう、あの世へ持っていく思い出として、今もう一度だけお会いしたい・・・と。その言葉に目を見開く。
「そう、もう一度でいい、あの御方に会えるのなら、もう死んでしまっても構わない・・・」
ラヴェルの言葉。地下室から移動したことを彼はなかなか理解出来なかった。もう、そんな力さえ残っていなかったのかも知れない。そして・・・。
「ここはどこだ」
「さあ・・・なんて説明いたしましょうかね」
不思議な物質で出来たドーム状の天井、見た事もない物質に目を見開くラヴェル。ふと見ると鏡。横に映った男はあまりにも似ていた。双子かと思うほどに。
「着替えて来ます。暫くお待ち下さい。あそこに・・・食事、用意してあります」
テーブルの上に食器がいくつか並んでいた。
「いや、今すぐ取るのは」
「大丈夫です。その専門の食事です。摂食障害の患者の為の栄養食ですので、ご心配には及びません」
「あなたは医者なのか」
「ええ、その資格もありますよ」
すっと彼は部屋から退出していった。ラヴェルは椅子に腰掛け、その食事を取った。意外と美味だった。どこでそんな力があつたのか、不思議だった。気がつくと身なりは整えられていた。いつの間に身綺麗になったのか、解らなかった。かぶっていた帽子を取る。テーブルも椅子も大理石に感触が似ていた。ドアはどこにあるのだろうか、そう思わせる部屋だった。部屋の中を探っていると不思議なボタンが二つあった。赤と緑色のボタン。緑色に触れると、目の前が開けていた。扉があったのだ。廊下に見える空間。
「何だ、ここは」
「あらら・・・レイモンド博士じゃないよな・・・」
そこにいた男は書類片手にそう言った。
「あの・・・」
「こちらです、この先に行って下さい」
「ああ・・・」
彼はそう告げると去っていく。奥に行くと歌声が聞こえた。どこの言葉がわからない言葉の歌。ギターの音色が印象的だ。その廊下の途中に男がいた。その姿。
「エドワード陛下」
思わず跪こうとするとその男に止められた。
「いらぬ」
「ここはどこなのですか、陛下は何故・・・」
「ああ・・・それは後だ」
エドワードに連れて行かれた部屋でリチャードがあの男と親しそうに話をしていた。
「あれ・・・」
「忙しいのよ、みんな」
「・・・貧乏クジのフランシーってわけだ」
笑ったのは。子どもの姿の彼だった。
「ディッコン・・・」
涙が出そうになった。
「あー崇徳院よか幸せかもー」
「何それ」
「うふふん、この歌好きなんだなー、私は。夢の世に・・・夢の世になれこし契りくちずしてさめむ朝(あした)にあふこともがな」
「意味は」
「タブレット、ご覧あれ」
「これ・・・か」
夢のように果敢ない世で親しんできた縁がこのまま朽ちることなく、迷妄の夢から覚めて成仏する朝に、あなたと再び逢いたいものだ。
「成仏って何」
「天国に行く前にって意味になるかなー」
「これ・・・誰の歌」
「戦に負けて流罪になった帝王が流刑地で生き別れになった家臣を慕って詠んだ歌よ」
「・・・へえ」
「ちなみに彼はその土地の三大怨霊として有名ですねん」
「怨霊・・・」
「祟り神ね、何かと言うとお祭りというか、鎮魂のための行事を行ったそうで。どーせならあんたもそれくらいアクティブに動けば面白れーのにさー」
「博士・・・あのね」
この博士にはキリスト教の習慣はない。苦笑いするリチャードにラヴェルは肩をひそめていた。
「面白そうだから、ラヴェルミンスターには時空に傷つけてやった」
「博士、何したの」
「・・・フランシス・ラヴェル子爵の幽霊が出るって暫く噂になるように操作しといた」
「・・・面白がってるだろ」
「とーぜん」
そう言ってまた知らない言葉でセンチメンタルな歌を歌う。
「この人って・・・もしかして」
とんでもない人なのでは。そう思った。
「ジョージ」
リチャードがそう呼びかけた人は初老の男で。面影は確かにクラレンス公のものだったが。
「まあ、よろしくなー」
ふいに名前を呼ばれて振り返れば
別の物語の二人を見るばかり
タブレットに滑る歌詞にリチャードの顔が曇る。
「いろんな宗教があるものだね」
「あーレイモンは東洋マニアだからなー」
「東洋の言葉なの」
「そー黄金の国の言葉」
「ジパングねー・・・」
レイモンドの指がリモコンを操作する。モニターに映し出された建物は木造、不思議な建物で。
「これ何」
「東大寺、南大門・・・」
「え」
「お寺の正門ですよ」
その巨大な門をくぐり抜け、歩いて行くと巨大な木造の建物。
「大仏殿です」
入って行くと、大きな大きな像。座っているその像は大きな手を不思議な形にしていた。
「・・・毘盧遮那仏と言って宇宙を表しているそうです。建造当時は確か金色だったらしいとか」
「金色・・・」
大きな蓮が両脇にある像。その仏殿からカメラはまた違うところへと行く。
「二月堂、ここの本尊は秘仏です」
覆われていて見る事はない。次の堂には大きな立像。
「不空羂索観音といいます」
何本も手を持ち、豪華な衣装をまとっている。冠もまた豪華だ。
「ジパングのお寺ですよ、二月堂の鎮魂のためのミサに似た行事は・・・西暦752年に開始され、1452年では700回目になりますね」
「は・・・ななひゃくねん」
「ええ、700回目の鎮魂の行事、ほら、大きな松明の・・・」
「え、アレ、鎮魂の行事なの・・・」
「黄金の国は不思議な国ですよ、とてもね」
「あの夢の世の帝王は・・・いつの人」
「あなたがたより三百年ほど前の御方です」
「そう・・・」
「争乱の後に帝王になったのはその御方の弟君でした。これが、また、言うなれば化け物じみた帝王で・・・自分の孫が西の海の戦に敗れ死に果てても平然としていたと聞いてます」
「孫」
「ええ、御年わずか八歳の幼い帝王でした。安徳の帝と言います」
「子どもを・・・」
「祖母の御方が奏上したお言葉が伝わってますよ、海の底にも都あるらんとて・・・と」
「海の底の都・・・か」
「その母君は生き残ってしまわれたそうです」
「母が」
「建礼門院徳子と言う御名で通っています。出家して鎮魂の祈りを続けられていたそうです」
「母上みたいだ・・・」
ぽつんとそう言う。面倒を見ろと言われたラヴェルは目を回していた。以前とは全然違う仕事ばかりで、泣き言が出そうだった。
「何なんですかーもー」
掃除に洗濯、着替えの手伝い、それから食事の度に食堂に抱き上げて連れて行く事など本当に雑多な事ばかりだ。
「そーだ、ラヴェルさんに医学の事、覚えてもらおっと。頭、空じゃないよね」
「わりと頭いい方だけど・・・」
レイモンド博士のにちゃーっとした居心地の悪い笑顔にぞっとしたけれど。けれど。
「大学ってきつい・・・」
泣き言を言ったら、ジョージが笑った。毎日、抱き上げて連れて行く食堂。同じ年頃の少年よりも華奢なのではないか、ふとそう思う。ひしっと抱きつくときもある。気に入らなさそうに二人の兄たちにすかさず睨まれて、ラヴェルは身が縮む思いまでした。
「気にしちゃ駄目ですよ、猿団子なぞ」
「うるさいな、レイモン」
エドワードがそう言う。
「何ですか、猿団子って」
「コレだよ」
リチャードが映し出した映像。猿がまるく固まって風雪から身を守っている。
「普通、猿は南国の生き物で、この猿たちは奇跡的な猿でね、スノーモンキーってあだ名もあるんだ、温泉に入ったり、仲間で固まって寒さから身を守ったりすんの」
「この固まってる様子と似ているから、そう言うんだよ、この博士と来たら」
ジョージの言葉にラヴェルは「はあ・・・」と力無く呟いた。確かに二人の兄はリチャードを真ん中に挟んでべったりくっついている。
「仕事しやがれ、二人とも」
レイモンドがそう言うと、慌てて二人が去っていく。
「締切がっ・・・」
始末書・報告書の締切に追われるエドワードとラボの管理の仕事に追われるジョージ。ベッドの上で書物を広げたり、モニターの映像に見入ったりしているリチャード。
「フランシー・・・」
大学の学問に追われながらも、彼のそばにいる。
「大学って面白いの」
「・・・もんのすっごくきついですっ」
「あっそ・・・」
医学部だけなんだけどね、とレイモンドがすました顔で付け加えた。
「ひどいですよ・・・」
そう言いながらも、ここの生活をいつの間にか楽しんでいた。昔の衣装をまま身につけていても、誰も何も言わなかったのは、時間移民がいるせいだと知ったのは、後の事だった。昔の衣装なのに、持っている物は大きめのタブレットと耳に架ける形の通信器具。手元のタブレットで相手を指定すると会話が出来る仕組みになっていた。羽ペンなど持っている者はなく、殆どがタブレットに連動するペンか、指先で文書が作成できた。それに慣れるのにはさほど時間がかからなかったが、仕組みは知ろうとするな、と言われ、その点は目をつぶった。けれど。医学の専門知識は・・・。物覚えが悪い時は催眠学習の方法までとらされた。とっとと医者の免許獲得しやがれ、なやり方に涙がでそうになる。ふと見ると、リチャードが無邪気に笑っていた。知らなかった出来事をむさぼる様に学び、様々な現象に目を耀かせ、レイモンドがふと呟く短い詩に目を耀かせる。
君が行く道の長手をくりたたね焼き滅ぼさん天の火もがも・・・
思ひつつ寝ればかもとなぬば玉の一夜もおちず夢にし見ゆる
「え、禁じられていたの、この二人」
「気持ち解らないでもない・・・」
ラヴェルの言葉にリチャードが笑う。
「道の長手をくりたたね、か」
手元に全て引き寄せて、全て焼き滅ぼしてでも愛する人の元へと飛ぶ心。心ではずっとずっと思っていた。けれど・・・最後まで戦った。
最後マデ戦ウモ命、友ノ辺ニ捨ツルモ命・・・共二ユク・・・
風雪のビバーク・松濤明・絶筆
絶命する寸前、そう書き付けた人の最後の絶唱。それを見ては、うらやんだ。けれど今は、そばにその人がいる。
涙堪え、呟く。手伝えと命じる人の声はあくまでも冷たく・・。首の後ろを切り裂き、器具を取り付け、稼働させる人の横顔。
「死なせてやって・・・ください・・・」
もう一度、言う。が・・・。
「いいえ」
レイモンドの言葉に地団駄を踏んだけれど、彼は冷淡だった。常に落ち着いていた。いや、落ち着いて見えていただけだった。愛していたのか。レイモンドの態度は何故か、奇妙なものだった。
「愛していた人がいたんです」
見せてくれたポートレートのその人は。プランタジネットの特徴と東洋系の特徴を持った女性だった。茶色の髪にグレーの瞳。ヨーク家の末子に似ていた。その様子に驚く。
「曜子」
ぽつんとその名を呟く。
「あのね・・・」
リチャードを抱き締めている癖にその名前。同行二人、その言葉を彼は意識している。その女性が自殺し、彼はよりいっそう、深く同行二人を意識する。
「ああ、ごめんなさい・・・私は失礼しますね」
すっと離れ、レイモンドは去っていく。それを何とも言えない目でリチャードが追う。けれど、レイモンドの背中はつれなく離れていく。
「我が君」
その手を取って口づけると、やっとリチャードはラヴェルの顔を見上げた。
「おまえ、どこを旅してきたの・・・」
タブレットには先ほどまでレイモンドが歌っていた歌の歌詞が英文に訳されて書かれてあった。
わずかな思い出 くりかえしたどる道
あなたの知らない 旅
「ラヴェルの屋敷の奥深く・・・一人で・・・自分の妄想の中でしか旅は出来ませんでしたよ・・・」
そう言うとリチャードはじっとラヴェルを見つめていた。
「ごめんね・・・大変な思いさせて」
少年の声で言う。幼い少年の姿のまま、彼はベッドに横たわり、本を読み、モニターを眺め、様々な勉強をしていた。それはキリスト教徒の考え方とは全然違う不思議な宗教観の話であったり、とても短い詩の話であったりした。
「お遍路さん・・・って何」
「好奇心旺盛ですねー」
レイモンドが笑って、巡礼者の話をした。
「八十八箇所、寺があったんですよ、この島に」
ある島を示してそう言う。
「この島を・・・巡るんです、杖片手に」
その杖には「同行二人」と書かれていると言う。
「どういう意味」
「弘法大師、空海の御霊がご一緒にいるという意味ですよ」
「ああ、聖人と同じよーな偉い僧侶が・・・一緒にいるということ」
「そうですよ・・・」
「へえ・・・生きている人と一緒がいいなあ」
「ああ、もう一人のフランシーと、ですか」
「うん」
レイモンドにそう言って笑っていた。ラヴェルはその言葉に胸を熱くした。同行二人。その言葉を何度も呟くリチャード。
「フランシーがいれば大丈夫だよ」
どういう意味なのか、そればかり繰り返す。まるで幼い頃に戻ったかのように。越えていけない峠道。それを越えていきたかったあの日はもう消え失せた。
足曳きの長き山道を君ひとりいかにか越ゆらむ
けれど。
「この雪の中、どこに消えたんだっ」
ジョージが痛む肩を押さえながら、騒ぐ。研究員全員で探すが見当がつかない。どこに行ったのか、解らない。ラヴェルも探した。見つからず、焦る。仕方なく、近所の家の扉を全部たたくことにした。やっと一軒、該当する家があった。フランツ・リース教授の家。
「入りなさい」
静かな初老の男の言葉にラヴェルは従い、その家の中に入り、外套を脱いだ。雪を振り払い、リース氏に案内されてその住まいへと足を踏み入れた。暖炉のそばにリース夫人が座っていた。そのすぐ横にクッションに頭を乗せ、寝息を立てている人の姿が目に入った。暖かな毛布と優しくその髪を撫で続ける夫人の、年齢相応の手。
「研究員の皆さんには連絡したわ」
静かに夫人が告げる。腰が抜けたようにラヴェルは座り込んだ。
「・・・なんで・・・」
眠っている顔を見て、溜息が出た。
「庭先に座っていたの。主人が抱き上げて、ここに連れてきてもらって、さっき、やっと落ち着いたところなのよ」
「庭先・・・」
「ええ、随分冷えていたわ、このままでは高熱を出しかねない、まだ安心は出来ないけれど・・・今のところは何とか。レイモンド博士にはすぐ来てもらう様に手配したわ」
「そうですか・・・」
「ラボに留めるのはあまりよくないわ・・・あんなことがあったばかりなのですもの」
あんなこと・・・。それに思い至って、ラヴェルは言葉をなくす。
「あなたがコニー・・・」
見上げる女性に驚く。赤毛のたくましいと言ってもよい人だ。
「ええ。様子を見て決めたの、父と母も了承したわ」
「でも、いいのですか・・・」
「あの人は人間でしょう、化け物じゃないわ」
その言葉に、はっとする。
「どんな悪評があっても、実際のあの人は違う。あの身体なら・・・堪えきれないこともあるわ。膝を抱えて、震えているあの人を荒野で見て見ぬ振りをすることなんて出来ない」
「でも・・・」
「納得出来なくとも・・・研究所よりは私の両親の方がマシだわ」
「マシ・・・」
「養子縁組を願い出ているの、駄目かしら」
コニーの言葉に驚く。
「私の弟にするの・・・」
「メリット・・・」
「母が納得しないわ・・・父もよ。このまま保護者もなく一人この世界に置くなんて・・・無理だわ」
「・・・ですが」
「見かけの年齢で法律ではみんな判断してしまう。あの見かけではアパートも借りられないし、生活する場所も・・・児童養護施設でいいと思うの、特殊な環境にある人よ、画一的に出来るわけないわ」
「そうでした・・・」
「あなたも独立できている訳じゃない。クラレンス所長にだってここで得たご家族がある・・・レイモンド博士にだって・・・あなたは知らないかも知れない・・・研究所、閉所命令が出ているの」
「閉所命令・・・」
「クラレンス・ラボは閉所よ、彼は大学に戻り、研究所を大学内に開設するよう命令が下りているのよ」
「それは」
「研究員一人の失態が影響していないとは言い切れない」
「そうですか・・・」
「あなたは総合大学医学部の学生としての地位が立証されているわ。でも・・・一人、どこにも行けない人がいるの」
「あの方が」
「ええ、彼は・・・医学部付属病院の小児病棟に送られるか、養子縁組を公募するか・・・」
「公募・・・ですか」
「身体・精神に障害が多少あるとなれば・・・養子縁組の公募はあり得ない。小児病棟に隔離される確率が高いわ」
「隔離・・・」
「精神は大人ですもの・・・まわりに悪影響あたえかねないと判断されれば、一生隔離される可能性もある」
「そんな・・・」
「だから、うちの両親の申し出は渡りに船なのよ」
「・・・説得してみます」
「期限は迫っているわ」
コニーはそう言った。
「嫌だ」
リチャードの言葉にラヴェルはやっぱりね、と思う。
「リースさん達は確かにいい人達だけど・・・ここにいたい」
「ここは閉所になるんですよ」
「一人で暮らす」
「それは許可出来ない。いえ、許されません。保護義務がこのラボの誰かにあります」
「私は成人している」
「ええ、心はね。でもその身体では・・・住まいも借りられない、就職も出来ない、生活基盤何一つ手に出来ないんです」
「それがこの世界の決まりか」
「法律というものですよ」
ラヴェルはさらりと告げた。
「みんなで決めた法律の規定には逆らえません。あなたの養育保護義務を怠った場合、ジョージ・クラレンス所長が責任を取らされます。所長にはここで築いた家庭があります。あなたは・・・姪御さんを路頭に迷わせおつもりですか」
「・・・ジョージの」
「ええ、あなたの姪がいます。彼女は若い女性です。しかも学生です。何の力もない」
「マギーも・・・ウォーリックの子も・・・見捨てた。もう一度それをする・・・と言うのか」
「出来ますか、出来るならご勝手になさればいい」
ラヴェルはそう言うと部屋から出て行った。
「失敗って感じ、ラヴェルさんよ」
クラレンス所長が廊下でそう言った。
「そういう感じですね、マージョリーさんたち引っ張りだしましたが、どうも、ね」
「あいつらはほっといても生きていけるよ、まあ、ムショ暮らしは俺は覚悟せんとあかんけど」
「いいんですか」
「その時は離婚でも何でもするさ、もっともマージョリーは離婚証書にサインする女じゃないけどね」
「は・・・」
「何度かサイン頼んだけど、丸めて暖炉にくべられましてね、証書ごと」
「あーそれはそれは」
「俺は引っ張り出しても無駄。引き受けてもいいけど、あいつは・・・俺やネッドから離れて生きた方がいい・・・家族は別にあった方がいい・・・」
「何故」
「父親似と母親似にはっきり別れちゃったからね、俺ら兄弟姉妹。よりによって父親に似ているのはあいつだけになっちまった。アルスラは・・・似ていたんだけどね、あの子」
「そうだったんですか」
「夭折したきょうだいたちは似ていたんだよ、あいつと。意味解るかな、身体が弱くて死んでしまった兄弟姉妹とあいつの共通項」
「・・・まさか」
「だからあいつの事は父上も母上も半分は諦めかけていたの。母上はかなり喜んでいたと思うよ、結婚して子どもを得るなんてね」
「・・・知りませんでした」
「孫の死には母上はかなり参ったと思う。ましてあいつの子となれば、ね」
「その時は・・・そう言えば、何日か宮殿を空けていた事が」
「母上の屋敷にいたんだろうな、あいつ」
「そうでしたか」
もう一度部屋に入り、説得を開始したが、今度は怒鳴りあいになった。外で聞いていたジョージは溜息をついた。
「どうしても、嫌なものは嫌だ」
理由を聞いても、引かない。泣き出すとは思わなかったラヴェルはその手首を掴んでいた。
「この手を振り解いて見せて下さい、それが出来たら私は納得しますよ、我が君」
強く握られて動かす事は出来なかった。そう大人の力ではない。ひ弱な子どもでしかない。解っている。解っているけれど・・・離れられない。顔も声も覚えていない父親、そして最後まで毅然としていた母の顔。愛し、そして憎み合ってしまった兄。彼らから遠く離れるなんて、出来ない。
「父上、母上、兄上・・・」
助けて。その言葉を飲み込んで泣いている。
「ここには誰もいませんよ・・・」
「いやだ・・・私はヨークのリチャードだ」
そう言って嘆く。ラヴェルの胸に縋って嘆いた。
「あの人達から離れられなかったからこそ、ボズワースなんかでっ・・・」
馬鹿な真似するしかなかった、と。そう言って、座り込んだ。
「生きていたかった・・・ミドラムで、普通に・・・だから・・・離してって言ったのに」
言ったのに。死んだものと諦めてくれって言ったのに・・・と続ける。
「あなたはあなたのままでいいんですよ、ただ、この世界では・・・あなたには家族はない。何もないのに・・・子どものままなんです、解って下さい。あの人達を利用すればいいんです、それだけですよ」
「そんなこと・・・」
「彼らはそんなこと百も承知の上で、あなたを息子として出迎えたいと言っているんです」
「知らない・・・」
かくりとそのまま、倒れ込み、目を閉じた。ラヴェルはそんな彼を抱き締め、それからベッドに横たわらせた。そして、その横で頭を抱え込み、溜息を一つ、ついた。
「そばにいて」
その言葉にラヴェルはぴくりと肩をゆらせた。
「ええ、いますよ、我が君」
口づけると彼は驚くべき言葉を口にした。
「女みたいに抱かれた事、あるんだ」
「え」
「無理に」
「なんですって・・・」
「こんなに醜いのに、どうしてそんな事出来るの・・・」
「ディッコン」
「嫌だった・・・でも、あの手は・・・」
抱き締めたまま、聞く言葉。
「あの手は兄上の手に似ていた。暗かったから誰だか今も解らない・・・怖かった・・・もしも兄上だったら・・・どうしようかと」
「そんなことは」
「でも・・・罪は罪・・・嘘は嘘、傷は傷・・・どんなに言いつくろっても逃れようもない」
「まさか、そんな」
「義姉上がおっしゃった、あなたがいれば、あの人は・・・他の女には走らない・・・あなたさえいれば、嫉妬に狂わずにすむ、あなたさえ、差し出せば、と」
「な・・・」
「逃げます、逃がして下さい、そう頼んで、北部に逃げた。この研究所でもそう・・・逃げ切れなかった・・・ならもう・・・死んでもいい」
「そんな」
「嫌だ、と思った。だから・・・私は返事していない。兄上と死ぬなんて言ってない。ヨークと心中する義務なんてない・・・だからフランシー」
「ええ、ならば・・・リースの家に入って新しい道を歩けばいいじゃありませんか」
「それは嫌だ」
「今日はもう休みましょう」
頷いて、ラヴェルの胸に顔を埋めてきた。
「私だってね・・・仕方ないか・・・」
修行僧みたいだ、と苦笑するしかない。
ぬばたまの君が黒髪の 褥に貸せるこの腕の躰温も未ださめやらで・・・・・
ラヴェルはその夜はとうとう部屋から出てこなかった。
「どうしたんだ」
「さあね」
そっとレイモンドが覗きに行くと、二人とも寝息を立てていた。疲れ果てて眠ってしまったリチャードの脇で眠っているラヴェル。そのラヴェルにリチャードの腕がしがみつくように回されていた。
「何やってんだか」
そうレイモンドが呟くが。
朝になるとまた怒鳴りあいに戻っている。
「納得出来ない」
「お気持ちは解りますが・・・その身体で独立は無理です」
部屋の中での言い争いにジョージが溜息をつく。
「ラヴェルとリチャードが、ねえ」
「なかなか激しいもので・・・」
レイモンドがそう呟く。
「もっと何というか、言い争いなんてしないかと思ったんだけどなあ・・・なんだか知らんがいつもつるんでいたし・・・」
ジョージがそう言う。ミドラムの、あの城の中庭で三人一緒にいたのは覚えている。一人はアンで、一人はラヴェル、二人の間にリチャード。何が楽しいのか、三人で笑っていた。知っていた、あの頃からリチャードは・・・あまり丈夫ではなく、細く頼りなかった。貧血起こしてうずくまっていたのも覚えている。何度かエドワードに言おうか、迷った。言ってしまえば良かったのか、今も解らない。リチャードに騎士の生活は無理だと・・・言うべきか、何度も迷い、結局は言わなかった。強くなろうとあがけばあがくほど、大きな代償を払った弟。言っておけば、国王になることもなく、戦死することもなかったはずだ・・・。だが、それはリチャード本人にはいいことにはならない。望む人生にはならない。
「まあ・・・手抜きしちまったのは今も後悔しているけどな」
そう呟いて、ジョージは自室に戻って行く。
「閉所まで時間がない」
「そうですね・・・」
レイモンドが溜息混じりにそう言った。
「解りました、そんなにおっしゃるなら」
毛布ごと抱き上げるとラヴェルは研究所を飛び出した。
「あらら、強行策に出ましたわよ」
「ほっとけ」
ジョージはそう言って、頬杖をついていた。
「そーですねー」
レイモンドは自分の持ち物をまとめ始めていた。
「離せっ、おろせっ、フランシーっ」
「うるさいっ」
怒鳴りつけるとそのまま、足音荒くラヴェルは歩いて行く。怒鳴られて驚いたのか、一瞬、目を見開いてリチャードはラヴェルを見つめていた。彼がこんなに激しい言葉を口にしたことはなかった。
「フランシー、どーしたの、おまえ」
うまく言葉にならない。そのまま、ラヴェルはリース家の庭に入り込み、コニーが開けたサンルームにあった扉からリース家の中へと入り込んだ。
「こっちよ」
コニーに案内された部屋。ぐいっとおかしな感覚にリチャードは眉を寄せる。
「えっ」
コニーの顔が目の前にある。
「ではよろしく」
「どーも」
ラヴェルが去っていく。
「フランシーっ」
叫び声。そして気付く。
「なんだか、随分細っこいな、ついでにうちの娘よりちっちゃい」
「えっ」
そして気付いた。コニーがリチャードを抱き上げていると言うことに。
「・・・女の人に」
よりによって女人に抱き上げられているとは。驚くが、彼女はにやっと笑って、その部屋のベッドの上にリチャードを下ろした。
「軽いな、アンタ」
女性に軽い、なんて言われるとは夢にも思わなかった。
「馬鹿ね、コニー、あんたが規格外なのよ」
彼女の後ろから出てきたジゼルが笑う。
「あ、おかあちゃん、それはないと違う」
「無理よ。まったく、あなたの亭主も物好きよね」
「いいじゃないのようっ」
コニーがそう言い返していた。
「ラヴェルさんが強行突破するとはねえ・・・何したの、リチャード」
「わ、解りません、なんであんなに怒ってるのか」
「レイモンド博士にも申し入れてあるわ。ここが今日からあなたの部屋よ」
ジゼルに言われ、戸惑う。ベッド、机、チェストや他の家具、モニターやパソコン・・・そして大きな書棚。
「まだ、今日は自分で動けるわね、この部屋のこっちが風呂場、こっちがトイレ。この扉から向こうがリビングよ。食堂はリビングと同じなのは知っているわよね。玄関はもっと良くなってから案内するわ」
「あの」
「チェストには必要な着替え、全部入っているから。フランツが戻るまで、休みなさいね」
そこまで言うとジゼルとコニーは部屋から出て行った。その扉を開けて向こうに行こうと近寄ったが、開かなかった。押しても引いても、開かなかった。
「何・・・」
軟禁・・・ってこと・・・どうして・・・混乱する頭を必死で整えようとするが、よく解らない。ベッドに戻り、座り込む。毛布や枕の横に置いてあったものに気付いて、笑った。白い生地で作られた猪だった。誰がデザインしたものか、愛らしい表情をしている。手に取ってみると、手作りなのは即解った。くったりとした感触の縫いぐるみ。知っているのだ、あの夫人は。普通なら茶色の猪のはずだ。白いのは、知っているのだ。正体を。それを抱き締めたまま、座っている。ぼんやりと、眺める部屋は清潔で、簡素で・・・それでいて暖かい感じのする部屋だ。帰宅したリース氏が入り込んで来た。
「気に入ったか」
リース氏が横に座って、その手で頬を撫でた。視界が曇っていた理由に気付いて、苦笑する。
「すみません・・・」
それしか言えなかった。リース氏は黙って抱きよせ、頭を撫でていた。
「ここにいなさい、悪いようにはしないから」
養子縁組手続きのためにレイモンド博士に渡された紋章指輪に驚く。二種類。グロスター公時代のものと国王の時に使っていたもの。どちらも大きくてどの指にもあわず、外れるか、くるくる廻るかいずれか。ジゼルが首にかけていた金鎖を外した。紋章指輪を通し、それをリチャードの首にかけた。
「私の母の形見の鎖よ、今日からあなたが使いなさい」
鎖には十字架が通っていたが、彼女はあっさりと外し、それを自分のジュエリーケースにしまった。
「あなたから見れば不思議かも知れないけど・・・私はキリスト教徒じゃないのよ。母の形見だから下げていただけなの。母は信者だったけど・・・私は・・・聖書、開いたこともないわ」
「え」
「読んだ事もないの。私の父はクリスチャンじゃないの。時間移民で、仏教の僧侶なのよ。不思議な人だったわ。母が何を信じていても何をしていても自由にさせておいたわ。ただ・・・納得出来ないのなら読むことはないと言ったの。父の言う言葉は今もわからない。でも・・・母の言う事より父の言う事の方が私は好きだったから、聖書は手にしなかったの。聖書の言葉じゃ、恐竜もアノマロカリスも・・・存在がおかしいのよね、私は化石が好きだったから・・・人間が中心じゃ嫌だったのよ」
あげるわ、と言ってジゼルは小さな石を持たせた。半分から割れる石だった。巻き貝のような模様がついていた。
「アンモナイトというのよ、恐竜がいた頃、海にいたイカやタコの仲間よ、身を守っていた殻しか残ってないけど・・・綺麗でしょ」
「渦巻きの形・・・」
「巻き貝じゃないのよ、面白いでしょ。ついでにコレ、海の生き物だけど、山の頂上で取れたりしたの。泥岩の一種なのよ」
「山の上で取れた・・・海が・・・えっと・・・」
「何万年もかけて海が陸になったりするの。これは・・・イングランドの海岸で取れたものよ、たしかドーセット海岸のもの・・・私が持っているイングランドものはこれだけくらいかしら。ああ、あとこれも・・・崩れてしまったヨークシャーにあった教会のステンドグラスのかけらよ」
黄色いガラス、丸みを帯びており、指を傷つける形にはなっていなかった。
「ステンドグラスのかけらよ」
「どこの教会の、ですか」
「シェリフハットンの小さな教会。リチャード三世の王太子の墓石が安置されていたという教会のものよ。古いらしいわ、いつの時代のものなのか解らないけれど」
「あの子の・・・」
「輝く太陽のステンドグラスがあったと聞いてるわ、資料映像見る限りは、その輝く太陽のステンドグラスに使われたものに違いないわ。これは・・・フランツのお母様が持っていたの」
「これを・・・何故」
「さあ、今となっては解らない。私はただ綺麗だなと思って取っておいたの。あなたにあげるために持っていたのかも知れないわね」
二つの物は何も語らない。
「イングランドのものはこれくらいしかないの、ごめんなさいね」
「いいえ」
首に提げた指輪は当分、この形だろう。見つめる先の自分の指は細く、手のひらも小さい。ジゼルは頬にキスして、軽く抱き締めた。
「無理とは言わないわ。ただ、今日は研究所に戻るのは無理よ」
「はい」
研究所には何度か戻ったが、結局、夜就寝する場所はラヴェルに連行されたリース家の部屋だった。朝になるとジゼルか、フランツが起こしに来る。柔らかい声で起こし、額にキスをする。フランツが抱き上げ、居間に連れて行き、食事を取らせる。そんな日々が続くようになった。
リース家に慣れてからお披露目だと言われ、リース氏の教え子や近所の婦人達に紹介された。お祝いだと言って彼女たちはそれぞれの物を持ち寄る。それは薔薇の苗だったり、ハーブの種だったり、ポプリだったりした。手編みの膝掛け、ストール、帽子。それらを送られ、笑うと、彼女たちはジゼルと同じようにキスをし、抱き締めてくれた。
「で、なんて呼んでるの」
「それがねえ・・・コニーはおかあちゃんだのかーちゃんなのよね」
「それは有名だわよ」
「母上と来て、めまいがしたわ」
「ああ、それはちょっと・・・」
「で、母様よ」
「なんか相当いい家なんじゃないの、ジゼル」
「えーっと・・・いいかしら」
ジゼルがリチャードに了解を求めた。
「いいですよ、母様」
「公爵家よ」
「は」
「15世紀の公爵家って言ったら王族じゃないの・・・」
「そうよ」
「え・・・簡単に言うわね・・・」
「エドマンド・オブ・ラングリーの子孫だわ、エドワード三世の五男の」
「は」
「コニスバラのリチャードが二代目、三代目ヨーク公の家族よ」
「・・・エドワード四世の王弟になるわよ」
「それがどうしたの」
「へ」
くすくす笑っている少年。
「黒髪の王弟・・・エドマンドは知っているわ・・・こっちにいたって聞いた事あるもの・・・もう一人はグロスター公リチャード・プランタジネット、即位してリチャード三世」
「あらまあ・・・」
婦人達が驚いて目を丸くさせていた。
「母様」
「なあに」
「なんで驚くの、みんな」
「さあ、何故かしらね、知らないわ」
リチャードにジゼルは焼き菓子を手渡した。
「ハーブティがいいわよね」
「うん」
スーパーで売っているマグカップにハーブティを入れてジゼルが手渡す。
「ミントよ、生じゃないから濁っているけど」
「今日は摘めないもんね」
庭には客人が大勢いた。ジョージもレイモンドもラヴェルも庭で菓子を食べたりお茶を飲んだりしていた。
「それじゃあ、上品にもなるわよねー、コニーはともかく」
「なんでみんなそう言うのよ」
「あらだって、ねえ」
婦人達の会話に肩をひそめる。
「シェークスピアの嘘つきといっても、テューダーの歴史観だものねえ・・・細くてちっちゃいし・・・将来はどうなさるのかしら」
「え・・・あー学校行かなきゃ・・・なんないけど・・・えーっと、どの学校がいいのか解らない・・・」
「高校卒業資格か、大学入試か・・・どっちかになると思うわよ」
その女性は高校教師だという。
「でも、この見かけじゃ」
「スキップ制度があるのよ、ただ、ちょっと大変かも知れないけど・・・子ども時代からやりなおしもきついわよ」
「そんなものですか」
「まあ、その点はフランツかレイモンド博士に任せておけば大丈夫よ、多分」
「はあ・・・」
この世界の仕組みはまだよく解らない。ただ近所の人々はリース家の養子をごく普通の子どもとして受け入れていたのは間違いなかった。
「ぬばたまの黒髪・・・か」
ある夫人は東洋の血を持っていると言う。
「あーそれ、レイモンがよく言う・・・黒髪にかかる枕詞が、たしか木の実かなにかで「ぬぱたま」とか」
「あら、知っているの・・・」
「ぬばたまの君が黒髪の 褥に貸せるこの腕の躰温も未ださめやらで 後朝の別離する・・・あれ、これちょっと、この見かけじゃまずいみたいな」
「まずいわね」
「レイモンが教えてくれたのは・・・百人一首の・・・ながからむ心も知らず黒髪の乱れて今朝はものをこそ思へ・・・恋歌だ、これも」
「あらまあ・・・」
「昔は東洋の女の人は身丈くらい長く髪を伸ばしていたらしいって・・・。届かないときはぬけた髪をあつめて付け毛にしていたって聞いた事ある」
「関心あるのなら、史学科に入ってみたら」
「入れるかなあ」
「それは、どうかしらね」
婦人達はそう言って微笑んでいた。庭にいた三人がその様子を見て何か話をしていた。
「何か奇妙に可愛がられているじゃん」
「笑顔満開だからねえー」
「そう言えば・・・楽しそうだね、まったく」
いつになく笑顔でいるリチャードにラヴェルは驚いていた。特別扱いされていない事が嬉しいらしい。
体調が良いときはコニーがやってきて、護身術を教え込んだ。大学入学が決まったら毎日の様にやってきた。
「このまま、殴ろうとしてみて、拳でいいわ」
「姉様」
「ここよ」
みぞおちを指し示すコニー。そこに向かって拳を突き出したはずが、庭に仰向けに倒れていた。
「あれ・・・」
「いい、殴られそうになったら、相手の手首をつかんで、そのまま手首をかえすの、上に手のひらを向けるのよ、やってみて。いくわよ」
コニーの腕を掴んだが、次が解らない。
「掴んだら、そのまま手首を回転させるの、手のひらを上にするだけ。瞬時にやらないと効果はないわ、やってみて」
コニーの腕を掴み、手のひらを上にするとコニーが倒れた。
「出来たじゃない。いい、コツをしっかり覚えるのよ、掴みかかってきたら、腕をその勢いのまま、引っ張れば勝手に転けてくれるわ。非力でも出来るでしょ、相手がすっころんで起き上がる間に逃げるか、大声を出すか、そうすれば、多少大人数でも逃げ切れるわ。後はね・・・持っている本やタブレットでぶん殴る。角を使うのよ、それから蹴っ飛ばすときは向こうずね。それと・・・股間」
「う・・・」
「効果あるのは解るでしょ」
「そうだけど・・・」
「しっかり覚えるの。大学って言ってもピンキリだからね、まずいことにアンタの年頃は男でもない女でもない感じに見えちゃうから性犯罪にも巻き込まれかねない。嫌だったら、護身術覚えておくの。私は生活指導を担当しているから解るけど、犯罪がないなんて言えないのよ、しっかり覚えるのよ、武器の携行は禁じられているから、自分の素手でなんとかするしかないの」
「姉様・・・」
「乗馬やってたんだから・・・受け身は出来るわよね」
「出来るけど・・・」
「ならまだマシだわね・・・」
「マシですかねえ」
「受け身が取れなきゃ下手な怪我するしかないわ。なるべくあおむけになって両手で地面をたたいて、顎は引く。後頭部の打撃を避けるのよ、身体を丸めて、首をすくめるようにするのも方法だわね、知っているはずよね」
「な、何とか」
「相手が棒などを持って攻撃してきても基本は同じよ、解るかしら」
「え」
「手首を掴んでかえせばひっくりかえってくれるわよ、人間の身体ってそういう風に出来ているのよ」
「ということは棒なども腕の延長にあると思っていいんだ」
「そうよ」
「これって・・・何」
「合気道って言うのよ、それの応用よ。日本の古式武道の一種よ。ほかにも柔術というのがあるの。これも梃子の原理や身体の構造を使って相手を倒す武術でね、柔、これを持って剛を制すと言われているの、柔軟性は剛力を制御できるって事よ。応用すれば、護身術に使えるわ。よく覚えるのよ、いい、ちゃんと覚えないとあなたが傷つくの。それだけは避けたい」
「姉様」
「身体の調子がいいときに稽古しましょう。今日はこんなところで止めましょう、おかあちゃんが変な顔しているし」
「そうですね・・・」
庭先でやっていたら、庭先に通じる戸口の横でジゼルが少し、怒っている様な顔をして立っていた。
それから大学に通っているとマイクという友人も出来た。彼のサークルに加わって活動し始め、護身術はマイクのそばにいる限りは使わずにすんだ。たまに使う事もあることはあったが。大学の講義やゼミは楽しい。レイモンドが教えてくれたり見せてくれたりした別世界の話はいつの間にか研究テーマになっていた。ラヴェルはリース家の近くで医院を開業し、生活を営むようになっていた。レイモンドの直弟子だけあってなかなか荒っぽい治療をするが、腕はまあまあと言う事で、評判がいいらしい。定期の診療はレイモンドからラヴェルに取って代わり、レイモンドは一時、遠くのコロニーに赴任していった。が、副学長の地位を得て戻って来た。学長はジョージが勤めていた。
不思議な世界だ。敵だろうと味方だろうと混在して生活している。ここに来る事を拒絶できると知らされたのは暫く経ってからだった。その時はケイツビーもラドクリフもいた。ただ、二人とも違っていた。ごく普通の若者として恋をし、中学生の方がマシだとジョージが笑うほど、たどたどしく、二人とも相手に口説かれるというヘタレぶりを発揮していた。
「何やってんの・・・みんな」
そして・・・ラヴェルもそんな羽目になった。自分の医院に勤める看護士。東洋の女性で、黒髪が美しい人。それをある日、高髷に結い、独特の簪を挿し、変わった着物を着てやってきた。
「先生、どうですか」
「それ」
「元の世界で着ていたの」
琉球絣の着物は薄地で、その上に鮮やかな色の着物を羽織っていた。黄色が鮮やかだ。
「紅型というの。王族と貴族にしか許されないのよ」
「それって」
「私の家はウナジャラを沢山出したのよ」
「え」
「ああ、王の妃という意味よ、元の世界で・・・世が世なら王様の後宮に入っていたわ、私」
東洋は一夫多妻制だと聞いている。
「跡継を生んだら、正妃になるのよ」
「そういう家の・・・」
「・・・巫女に、キコエオオキミになるかも知れない、王族の血、入ってるから」
「え」
「最高神官って意味なの。神事はね、私の生まれた島では男は行ってはいけないの。面白いでしょ。でもずいぶん昔に絶えてしまったわ。私の一家が全員死んだ戦争で色んな伝統が消えていったわ」
「時間移民、なのですか、君も」
「ええ。戦災で一家全滅して、一家で移民したの」
「戦災って・・・女・子どもが戦場に」
「暮らしていた土地が戦場になったんだもの仕方ないわ。敵国人なら別に情けなんか・・・かける訳ないじゃない、先生のいたところは違うの・・・」
「違いますよ、女・子ども・老人に手をかけることは恥ずかしい事だと」
「・・・そんなの・・・きれい事だわ、私、火炎放射器で焼き殺されたのに・・・女・子どもだけしかいないって解っていた壕なのに・・・炎がやってきたわ。負けた者なんかに情けなんかかけるわけないじゃない。私の骨は誰も拾ってくれなかったわよ・・・」
「そんなところから旅して来たのですか」
「そうよ・・・姉さんもそうよ・・・でも、先生、私だって恋したかったの、好きな人に好きだって一度でいいから言ってみたかったの。その人のために一度でいいから綺麗な着物、着たかったの・・・」
「あの、それ、誰の為に着たのですか・・・」
我ながら馬鹿みたいな質問だ。
「そ、それは・・・えーっと、先生に見せたかったの」
消え入りそうな声でそう言った。
「・・・嬉しく思います」 それだけ、やっと口にした。
「でー・・・手も握らず、ですかい」
レイモンドの言葉にラヴェルは声もなく。
「に、握っても、い、いいのかな」
リチャードは溜息をついていた。
「・・・こいつまでヘタレとは思ってみなかった・・・」
「そうだろーなー・・・」
赤面して固まっているラヴェルに何も言えない。
「おまえ、ひょっとしてかなり、馬鹿?」
「多分、馬鹿なんでしょうねー・・・」
落ち込んでいる。けれど、こればかりは。
「いいんでしょうか・・・」
「何が」
「私で」
「レイモン、どう思う?」
レイモンドが溜息をついた。
「私に聞かないで下さいよ、でも・・・ラヴェルさんが幸せならいいじゃありませんか」
「だよな」
ちらりと見ると、まだ迷っているのか、戸惑った顔。それでも、彼は返事をしたという。
「夢か・・・」
隣で眠っている人の顔を見て、ラヴェルは・・・苦笑していた。これも、また迷夢の中の・・・幻なのだろうか。腕にかかる黒髪。違う人種の顔。戦火で失ったはずの命を長らえて、ここにいる女性。妻とし、暮らして何年経つのか。住まいとした家の、階下にはかつて仕え、友として信じた人が住んでいる。妻と暮らしている。王妃とした人ではなく、庶子を生んだ人を妻として。たまに訪れる嫡子だった子、そして甥達。今日も甥が泊まっているはずだ。
「ん・・・もう朝なの」
「まだだよ、休んでいていいよ、目がさめただけだから」
「そうなの・・・」
彼女はそう言ってまたまどろんでいく。ラヴェルも、目を閉じた。幸せ、と思って。 終