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- 「ごめんね」
レイモンド博士の顔がくしゃりと歪んだ。
「別に・・・いいけど」
聞かされた事に彼はとても冷静だった。
「せめて・・・大人にしてもらえるかな、この姿ではなく・・・やりたいこと、一つだけあるんだけど」
「いいよ・・・ただし、リース夫妻の了承も必要だ」
「ありがとう、レイモンド博士」
すっと立ち上がると彼は去っていった。クラレンスラボの一室。トマスがやってきて、ジョージからの報告書を受け取っていた。
「来ていたんですか」
トマスは軽く会釈をした。
「殿下は」
「別行動ですよ、少し調べ事がありまして」
「そう・・・」
「何かあった・・・」
「彼らの企みは・・・僕の事だけは成功するみたい・・・」
「え」
「レイモンが薬、作れないって・・・半年保たせるのがやっとだと・・・今、聞かされた」
「本当ですか」
「うん、本当。だから、大人にしてもらおうって思う・・・アンとの約束、果たしたいし」
「リース夫妻には」
「これから話すって。白薔薇亭の兄上には、どうしようかなって思ってる・・・けど」
「何の歌ですか」
ふとレイモンドの部屋から聞こえる歌声。
「あー・・・心中物の歌とか、失恋の歌ともいうのかな、アレ・・・あれ、入ってる、曾根崎心中の一節が」
「ソネザキ・・・?」
「東洋のお話だよ、赤線の若い女郎と商家の若旦那が曾根崎の森で自ら命を絶ったという悲恋の・・・その一節にね・・・一足毎に消えていく、夢の夢こそ哀れなれ・・・って」
「消える・・・」
「命の雫がね、消えていくって歌っている・・・」
「自殺は」
「東洋にはキリスト教はないよ、トマス殿」
「・・・そうでしたね」
「あなたは生まれてきて良かったと思っているのかな」
「ええ」
「僕は思わない、一足毎にさっさと消えてしまえば良かったとずっと思ってたけど・・・」
「でも、それは」
「生まれてこなければ良かったとずっと思ってた・・・兄上には内緒にしておいてね」
彼はそう言い置いて去っていった。兄上には内緒にしておいてくれ、と彼は言った。その言葉だけがトマスの頭に奇妙に残った。
「あの人・・・長くないそうです」
トマスはぽつんと告げた。
「ああ、白薔薇亭の」
「ええ、オーナーの弟、そしてアルデモード夫人の弟でもある・・・」
「何かあったのか」
「生まれて来なければ良かった、と彼、言いました、私は何も言えなかった・・・言えなかったんです」
憂然として明鏡は
まッただなかより割れてけり
天罰 我が身にくだりぬと
シャロットの姫は叫びけり
「アーサー王伝説は・・・やはり有名な読み物だったのね」
リース夫人の言葉にリチャードは頷いた。
「母様、今の詩、もう一度読んで」
「好きね・・・」
「シャロットの姫は叫びけり・・・天罰、我が身に下りぬと・・・」
手をあわす様にして、両手が唇に触れる。横になったまま、過ごし始めて二週間ほど経っている。未だ少年の姿のまま、痩せた腕に彼は溜息をついた。
「明鏡はまっただなかより割れてけり・・・」
「鏡は横にひび割れて・・・とも訳すわね」
「それ、アガサ・クリスティが推理小説にした・・・」
「恨みはどこで買うか解らないものだわね」
「母様だったら、復讐するの」
「・・・するわね、その女のせいで息子が身体障害者になったのなら、恨み言くらい叩きつけるわよ」
「殺すことは」
「そこまでは出来ないわ・・・第一、その子はそれを望むかしら」
「望まないと思うよ、自分のせいで母親が人殺しになるなんて・・・嫌だ」
「あなたは優しい子ね」
「逆らった人、処刑したよ」
「そういう時代だったのよ、彼らを野放しにしたら、あなたが死ぬわよ」
「・・・それでも良かったのに、ね」
「それをお母様に言えるの」
「言えない・・・」
「なら生きるしかなかった、そう思いなさい」
「うん・・・さっきの」
「少し休んでからよ、リシィ、また熱が出るわ」
髪に触れる指の優しさ。微笑んで、それを受け止める。母親の優しさ。ここに来てから何度この優しさに救われたことか。それでも、なお、心の中に生まれて来なければよかった、と思う。心の闇はいつも抱え込んでいる。
「大人にはしないで」
レイモンド博士にそう告げた。
「どうして」
「アンに話したの、別の人と一緒になって幸せになってって」
「彼女は了承しましたか」
「しなかった、でも・・・これでいい」
「解りました・・・」
帰って行くと家の庭に椿があった。
「母様、これ」
「ああ、いただいたの、寒椿よ」
「そう」
寒椿が咲く頃にはもういないかも知れない。夏はもう去っていた。小康状態と臥したままを繰り返し繰り返し季節が過ぎて行く。
「それより・・・白薔薇亭には」
「あの人達には何も言わない。アンは別だけれどね」
そう言うと彼は奥の部屋へ入って行った。着替えて念の為、ベッドに入る事にした。日に日に出歩くことも億劫になっていく。
「お話があるの、リシィ」
アンがそう言った。
「何をしてきたの、君は」
「さすがね、どうしてわかるの」
キスをして彼女は微笑む。
「解るよ、こんななりでも、僕は君の夫のつもりだからね」
「レイモンドに頼んだわ」
「何」
「受精卵を二つ、私の子宮に着床させて欲しいって」
「一つは僕らの子だね」
「もう一つはあなたの細胞で組み立てた受精卵よ」
「神様がもしもおられるとしたら、それは罪だよ」
「それでもいいの」
「うん・・・君が望むなら僕には・・・何も言えない」
「ええ。ただ双子は大変だと脅されちゃった」
「当たり前だよ、あの子の時だって・・・」
「名前は・・・」
「リチャードはもういるんだよね、ジョージ、それから・・・もう一人の子には母様達にちなんで欲しいな」
「女の子だったら、セシリー・フランシスよ」
「何、セシリー・・・」
「フランシスはリースのお母様のミドルネーム」
「ああ・・・」
「男の子だったらフレドリック・フランシス、リースのお父様の、父上の名前よ」
「決めたの」
「ええ」
リース家のベッドルーム。入院を拒んだ彼の為に治療用具は一式調っていた。看護士の資格を持つ義母が看護を引き受けている。
「アン・・・」
「なあに」
「白薔薇亭のみんなには言わないでね」
「ベシーにも」
「もちろん」
「解ったわ」
アンはそう言ってキスをかわすとその部屋から出て行った。
「おばさま」
「アン・・・」
「お願いがあるの」
「何かしら」
「私達をおばさまの子供にして」
「いいわよ、手続きはすぐ取るわ、アン・ネヴィル・リースでいいかしら」
「ええ、ええ、もちろん。私・・・」
「話は聞いているわ、あなたの子ども達をリースの名前にしたいのね」
「ええ」
「解ったわ」
愛しているわ、この世を。だから決めたの、とアンは言う。
「おばさま、この歌はなあに」
「ああ、反戦歌よ・・・」
「そう・・・」
「前線兵士のための歌よ・・・」
膝の上にある本にリース夫人は視線をやる。
「その本も」
「時々、読んであげているの、この詩は、聞いていて良い物か解らないわ・・・」
「なんて」
あゝおとうとよ、君を泣く
君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや
・・・・・・・・・・・・
親の名を継ぐ君なれば
君死にたまふことなかれ
旅順の城はほろぶとも
ほろびずとても何事ぞ
・・・・・・・・・
かたみに人の血を流し
獣の道で死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
おほみこころのふかければ
もとよりいかで思されむ
あゝおとうとよ戦ひに
君死にたまふことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは
なげきの中にいたましく
わが子を召され、家を守り
安しときける大御代も
母のしら髪はまさりぬる
与謝野晶子
「君死にたまふことなかれ」より
「・・・それはきついわね・・・」
全部読み終えたリース夫人は何も言わなかった。
「アキコ・ヨサノ。度胸の据わった御方ね」
「リシィはそれを黙って聞いているのね」
「ええ、最後の戦いのことは・・・一言だけ言ったわ、リース家に入る前に」
「自殺だったと・・・」
「ええ、そうよ」
「私が生きていれば、私達の子がもっと丈夫な子だったら・・・」
「ヨーク家に生まれなければ良かった、と泣いたのよ、だから私の子供にしたの」
「そのことは私、感謝しています。これであの人は自由になれた・・・」
「ええ」
「ただ、おばさまにまた子のない母の嘆きを味わわせるなんて、とても苦しいわ」
「いいのよ」
「どうして」
「あの子は幸せだと言ったの、ここに来て、この家で暮らせて幸せだって。だからいいのよ」
「母様、僕はね・・・立派な裸の王様だったんだよ」
「あのね、そういう事を自分で解る人は愚か者の王とは言わないのよ」
「兄上にも、そういうところあったのかな・・・」
「どうかしらね」
今度は童話。リース夫人は息子の手を握った。
「カスタードパイ、今日の・・・欲しいんだけど」
「解ったわ、ちょっと待っていてね」
台所に向かい、パイを一切れ、切り分けてリース夫人は部屋に戻った。
「リシィ、パイ・・・」
愛おしそうにその髪を撫で、リース夫人は涙をたたえた目で見下ろしていた。
「さようなら、私の愛しい子」
額にキスをし、連絡を取った。レイモンド博士に。
「着せたい物は大学の制服で、いいのか」
「ええ、博士。私、白薔薇亭へ行って来ますわね」
白薔薇亭は通常営業中だった。忙しそうに働くアンやエドワードの姿をリース夫人は見ていた。
「アン」
「何か」
「すぐ来て頂戴。一通り終わったら、また連絡するわ」
「はい・・・」
「どうした」
「ちょっと出かけます」
アンがそう言ってリース夫人と去っていった。
「アレ、リース夫人じゃないですか」
バーテンダー兼ソムリエの男がそう言った。
「何かあったのかな」
「さあ・・・あ、はい、ただいま」
客の呼び出しにソムリエが応え、エドワードも違う客の元に走っていった。
その事があって五日経った後も、アンが戻らない。料理長はリース家へ向かった。
「おかしい…」
異変に気付いて、リース家に近付くと鍵がかかっていた。庭に廻ると夫人が手入れしていた植木鉢がひとつもなかった。窓は全て鎧戸が閉ざされている。庭の隅の立て札に気付いた。
「土地付き一戸建て販売中」
その名札がある。不動産会社に即座に連絡した。係員がやって来て、玄関を開けてくれた。白薔薇亭のオーナーと二人、入って行く。備え付けの家具以外、かつての家人の持ち物は全てなくなっていた。
「ここの人達は」
「ああ、引っ越しましたよ、総合大学のあるコロニーに。ご夫妻で。ああ、そうそう娘さんを連れて引っ越されました」
「十二歳くらいの子供がいたはずだが」
「いいえ、そんなお子さんはいませんでしたよ」
「いない…」
「尋ねても答えて下さらない雰囲気でしたね、私もそのお子さんは聞いてしたが、手続きをしたときにはいらっしゃいませんでしたよ」
「そうですか…」
地球でなくては生きられないはずの弟を連れて行ったのか、行かなかったのか。オーナーことエドワードは総合大学のあるコロニーに向かう事にした。
「ジョージ、リース夫妻の家は」
「ああ、これから行くところだ、一緒でも構わないだろう」
総合大学の学長はそう言うと、リース家へ向かった。
「あら、いらっしゃい」
夫人が出迎え、応接室へ入った。そこにはアンもいた。
「アン…リシィはどこだ」
「あの子は…リチャード三世に戻ったのよ」
リース夫人がそう答えていた。
「意味が…」
「ボズワースで戦死したイングランド王に戻ったの…」
「夫人…」
「ヨークミンスターとレスターに記念碑があるわ、リチャード三世の。そこよ」
「どういう事ですか」
「リチャード・リースの死亡届は出したわ。私達の息子はもういない」
「え…」
震える手で、エドワードは小さな弟の身体を思い起こしていた。最後に抱き締めたのは、抱き上げたのは、いつだった…?
「何故、知らせてくれなかった」
「あなたには知らせないで欲しいと言ったの」
「どうして」
「ミドラムのお城であなたが身を慎んで生きて長生きしていたら、あなたの弟の一家は断絶するはずだった…。あなたには知らせるつもりはない、と言ったわ。あなたが招いた事よ、仕方ないでしょう」
「今度こそ間違えまいと思っていた…」
「ええ、知っているわ」
「リシィ…」
抱き上げた小さな身体を愛おしく思っても、それは今はない。あふれる涙を拭いもせず、エドワードはリース家の椅子で頭を抱え込んでいた。
「あの人のたまごは、ここにいるの」
アンが自分のお腹を撫でて言った。
「一つはあの人自身、もう一つは私達の二人目の子供。機械に任せず、私を使って欲しいってレイモンドに頼んだの。でも、小さなたまごからやり直しのあの人は…あの人そのものじゃない…」
「アン」
「コピーであるだけで、あの人と同じ魂とは限らない…それでも、私はあの人をもう一度抱き締めたい」
「いいのか」
「そのために、この家の娘になったのよ」
「アン…」
微笑んでいた、義理の妹。エドワードは彼女にキスしてからリース家を後にした。
大学に何度行ってみても、弟の姿はない。いつもなら、怒鳴りつけにやってくるはず。マイクが気付いて軽く会釈していく。一度、マイクに聞いてみようと思った。
「葬式は、行ったよ、夫妻と大学の友達とだけで送った。遺灰はレスターとヨークのあの王様の棺の中に入れたんだよ」
「見てたのか」
「うん、大学の卒業式の制服着せて送った。遺灰になってからイングランド国王の旗と猪のついた軍旗をつけて二つの記念碑の元に埋葬してきた」
「私は…呼ばれなかった」
「なんで知らせるなって言うのか聞いてみたら、答えなかった、リース夫人がわだかまりは消えなかったらしいって。それが正しいとは思えないけど…あいつが嫌だと思うなら仕方ない」
「そうか」
「でも、待っていたんだ、あなたからの知らせ…あなたが亡くなったという知らせも全て…ちゃんと知らせてもらえると信じていた。なのに来なかった。そう言えば…シャロットの姫の詩、何度も読み聞かせたって言ってたな、リース夫人が」
「シャロット」
「ランスロットに恋し、知られぬまま亡くなった悲恋の姫。憂然として明鏡は まッただなかより割れてけり 天罰 我が身にくだりぬと
シャロットの姫は叫びけり…」
「明鏡はまっただなかより割れて…」
エドワードが見た幻。ひび割れた鏡の中、成人し、妻を娶り、北部へと幸せそうに旅立っていった若い弟の姿があった。行かないでくれ、と呼びかけそうになって押しとどめた自分の手。あれが、兄弟としての真の別れだった。今、気付いた。
「じゃ、俺はこれで」
去っていくマイク。ジョージの家に行くと彼は一人で自室でワーグナーの楽劇の一部を聞いていた。
「何だ」
「トリスタンとイズーだ」
「そうか」
愛の死の歌が流れていた。ジョージはマルヴァジア風味のノンアルコールドリンクをあおっていた。
「波打つ潮の中に,高鳴る響きの中に,世界の息のかよう万有の中におぼれ,沈み,意識なく,至高の喜び!」
最後に歌われた歌詞をジョージが英訳して呟いた。
「愛していたよ、リシィ」
ひび割れて落ちていく鏡のかけらに王冠を受け、悲しそうな顔をした弟が映り、消えていった。