鉄輪(かなわ)その8
裁判の最中、理智の道成寺を兄・護は見に来ていた。それは初めての事だった。何度誘っても、能楽堂に足を運ぶ事がなかった。 護の家で稽古を始めるとドアを閉め切り、音声を遮断する有様だったのに、初めて鑑賞しに来ていた。理智はそれを知らなかった。 知ったのは、演じ終わってからだった。休憩中にそっと退席していく兄の後ろ姿を楽屋から見ていた。どう思ったのか、知らない。 これで能楽師として一人前と認められたのは確かだ。若いからと言って道成寺も反対されていた。が、どうやらみんな納得してくれたらしい。それは何故なのか知らない。師匠だけが知っていた。
 「言った通りだったろう」
六世錦木六郎はそう言って笑った。鼓方の和泉は肩をひそめて、笑った。
 「ろくちゃんには敵わねえなあ」
 「知ってたのか、あの子の天性」
 「そりゃ弟子だからな、ただあの子は生の感情を表したことがない。それが気になった」
 「つまり・・・あの子は」
 「感情の起伏がないんだよ、それは表現者としてはマイナスだろう、で、あの子には理解出来る感情が必要な曲を選んで演じさせた」
 「それが・・・砧や鉄輪になるのか・・・」
 「そうだ」
 「ろくちゃん・・・」
 「あの子にはきつかったことだろうよ」
 「そうだろうな・・・それが解っていて、あの子にやらせるとは、とんでもない師匠だ」
 「それしか出来ないからな、私は」


結城護は服役した。悪質であったこと、脱税容疑、その上、実弟一家への執拗な脅迫も発覚した。そのため、謙は拘置所で首をつり、その妻は実は病没ではなく身重のまま投身自殺をしたことが暴露された。恐喝容疑も加わった。その証拠品は理智が警察に届けていた。譲があまりにおびえるので、仕掛けておいた盗聴器にその音声がはっきりと録音されてあった。それを提出するつもりはなかったが、兄の態度に変化がないことを知った理智が警察に差し出したのだ。容疑者死亡のまま書類送検という処置を義姉は受けた。
 「えっちゃん・・・」
驚いた事に悦子を養子として護は迎えた。彼女は幼い弟を育てるために結城家に入ったのだ。
 「よかったの、これで」
 「弟がいるもの・・・名前知っているかしら、あなたの名前、字を逆さまにしたものなの、ともまさって読むのよ。智理・・・」
 「うそ・・・なんで、そんな・・・」
目を見開いて理智は呻いた。あれだけ憎悪をたたきつけたあの人が、理智を許すはずがない。
 「愛情に甘えていたのは・・・僕だったのか」
劣等感と違いすぎる性格と・・・それが兄弟二人の絆を壊した。
 「もう遅いんだ・・・」
その合間に理智は襲名し、道成寺も披露した。実家の事で思い悩む間もなく師匠の病が悪化し、代理に理智はあちらこちらに飛び回る日々が続いた。ヨークからあの女性がやって来て錦木の門をたたいたのはそんな頃だった。メールと国際電話、それにエアメールでやりとりはしていた。
 「悠紀子さん・・・」
 「はい」
 「帰国したのですか、あなたにはあなたの・・・目標があったのでしょう」
 「ええ。でも・・・違う仕事がしたくなったの」
 「どうぞ・・・上がって下さい」
 「はい」
錦木の居間に通された悠紀子は清楚なファッションに身を包んでいた。流行のものとは違うものだ。海外にいたせいなのか、それとも本人の好みなのか、一目では判断出来ないが。
 「お邪魔します」
 「いらっしゃい」
 「父がよろしくと申しておりました。私の祖母は・・・この家の生まれですから」
 「えっ」
 「早くに亡くなったので、詳しくは知らなかったんです。祖母は幸恵と申します」
 「叔母は早く嫁いでいって・・・従兄弟はまだ幼かった。相手は再婚したので、遠ざかっていたが、なぁ」
 「錦木の名前を出したら、実家の祖父が初めて教えてくれましたが、私は何も知らなくて」
 「そうだろうなあ・・・それで。今日はどういった事で」
 「私、理智さんとお付き合いしてます、文通みたいな、段階ですけど」
 「聞いてるよ、結婚を考えている人がいると」
 「気が早いですね」
 「それで、君は・・・」
 「そのお話、受けようと思って参りました。理智さんの・・・その」
 「いいだろう、理智、おまえもそのつもりだろう」
 「はい」
 「ありがとうございます」
悠紀子がそう言って頭を下げていた。
 「いや、こちらこそ、だ。不肖な息子だがよろしく頼むよ」
 「はい・・・」

結婚式は盛大なものにならざるを得なかった。名跡・七世錦木六郎の結婚なのだから仕方がない。師匠夫妻に、若手の能仲間たち、師匠の仲間達、舞台の時の演出家などが列席した。イギリスから母もやって来ていた。日本の結婚式に彼女はかなり驚いていた。神社での式、披露宴。結城家からは悦子だけが出席していた。護は遠慮すると連絡があったところだった。花婿にとって紋付・袴は着慣れたものだ。花嫁は白無垢と金襴緞子の打掛に着替えただけ。式と出迎えの時は白無垢で、披露宴は色打掛を用いた。お色直しはせず、見送りの時、彼女が持っていた振り袖に着替えただけだった。
 「ありがとうございました」
そう言いながら列席者に小さな贈り物を渡す二人。セシリィは複雑な面持ちでそれを見ていた。理智は一度も洋服になることはなかった。二次会でやっとスーツ姿にワンピースで二人は現れたというが、それは若手の能仲間の会で、セシリィは列席しなかった。


 「お疲れ様でした」
母に向かって理智はそう挨拶する。新婚旅行はイギリスに決めたと言う。
 「ねえ、お願いがあるのだけど」
 「何ですか」
 「異教徒なのは知っているわ、リシィ、ヨークでも式を挙げて欲しいの」
 「それは・・・」
理智は横の悠紀子を見た。
 「私は構いませんけれど」
 「ありがとう」
母が搭乗する飛行機と同じ便で理智は新婚旅行に行く。成田で母に言われた言葉。
 「ヨークで式をあげるのなら、お母さん」
 「何かしら」
 「支度全て頼みましたよ」
 「あら、いいの」
 「いいのじゃありません、花嫁衣装から僕の衣装まで全て手配して下さい」
 「・・・それは大変ね」
 「コーディネートは全て、お母さんに任せますから」
 「理智さん・・・いいのかしら」
悠紀子がそう言った。
 「僕は何着ても構いませんけれどね」
 「あら、投げやりね」
 「洋服はあまり解らなくて」
現に今着ている洋服自体、最新流行ではなく、どこかしら古くさいイメージのものだ。
 「それはそうね・・・」


ヨークでの結婚式はヨークミンスターで行うと言う。用意された衣装を見て、理智は溜息をついた。悠紀子は理智の母方の叔母のドレスを直して着ることになった。ベールは理智の母方に代々伝わる豪華な手編みのレースだった、風習通りのものを身につけ、二人はヨークミンスターに赴いた。列席者は母の関係者ばかりだったが、誰が誰なのか解らなかった。花嫁のエスコートは理智の母親の再婚相手がつとめた。そして祭壇に振り返るといつも理智を案内してくれた司教がいた。彼が式を取り仕切るのだ、と気付いた。誓いの言葉を述べ、指輪を交換し、キスをし・・・普通の結婚式だった。
 「参られますか」
司教の言葉に理智は頷いた。
 「では、どうぞ」
悠紀子を伴って霊廟に入った。悠紀子のブーケから白い薔薇を抜き、それを墓碑に捧げた。二人はそこで最敬礼をした。理智は片膝をつき、悠紀子はドレスを両手でつまんで、腰を深くかがめた。直るともう一度、頭を下げ、二人は霊廟から出ていった。
 「リシィ、何故」
母のつぶやきが聞こえたが、理智は何も言わなかった。理智の腕に手をからめた悠紀子の手に理智は触れていた。列席者の中にあの花嫁が夫ともにいた。
 「おめでとうございます」
 「ありがとう」
日本語でのやりとり。悠紀子は彼女に話しかけた。
 「お話は伺ってます」
 「まあ・・」
そのまま、大聖堂を出るとみなが花を蒔いていた。ピンクの薔薇と白い薔薇の花びらが降り、列席者、新婚夫婦の上に豊かな香りを漂わせていた。
 「本当は僕らここで式あげちゃいけないんだけどね」
 「そうね・・・」
母のために執り行った式だ。それともう一つ、かの人に報告したかったのだ。


ホテルで着替え、二人は街中のパブに出かけた。悠紀子が友達とよく通ったという店だ。
 「ユキ」
悠紀子の友人達が、いつも通りにいた。
 「久しぶり」
 「急に帰国するんだもの、驚いちゃったわ、ねえもう戻らないの」
 「戻らないわ、結婚したの、私」
 「ええーっ」
そのやりとりを理智は微笑んで見ていた。
 「ああ、紹介するわ、夫よ」
 「初めまして」
会釈すると悠紀子の友達はびっくりした顔をしている。
 「また、ですか」
 「じゃないかしらね」
 「ユキ、この人は」
 「日本人よ、錦木理智、えーっとマサトモ・ニシキギというの」
 「悠紀子さん、ちがうでしょ」
 「ああ、ごめんなさい、第七世錦木六郎、だったわ」
 「七世・・・」
 「伝統芸能の役者なんです、能、のシテ方」
 「えっ」
 「シテ方・錦木の家元になるわけです」
 「・・・それって」
 「それが仕事です。名前もそれで通しますから」
 「シテ方・・・」
 「能の主役と地謡というコーラスですね、それを専門にやってます」
 「専門、能って主役は主役専門の人がやるのですか」
 「そうですよ、だから、いつもなら舞台では仮面、面をかけて出てきます。素顔の時もありますけど」
 「それをお仕事にしている・・・」
 「・・・母はこのヨーク出身のイギリス人ですけど、父は日本人で、能役者になるために錦木の家に養子として入りました」
 「え」
 「生まれは錦木じゃないんです。師匠の家に息子として入って家を継ぎましたので錦木を名乗ってます」
注文したビールと軽食を悠紀子が受け取っていた。
 「ああ、ごめんね、僕がするところなのに」
 「いいわよ、パブは初めて」
 「いや、何度か入った事あるけど・・・ヨークでは何故かお金払ったことなかった」
 「・・・それは納得だわ」
悠紀子の友達がそういう。
 「何故かなあ」
 「さあ、なんて言うべきかしら」
 「またあの人、ヨークミンスターのあの霊廟の」
 「知っているの」
 「似ているってみんな騒ぐから・・・そのせいかな」
 「多分ね」
 「似ているかなあ・・・これ、この人でしょ」
ナショナルギャラリーの肖像画の複製を理智は指さす。
 「もっと歳とったら似るかも知れないわよ」
 「そうかな・・・で、この人幾つで亡くなった・・・あ」
 「三十二歳」
 「老けてるね」
 「それは・・・」
 「深井、とか曲見・・・みたいな」
 「それなあに」
 「ああ、中年の女性の面。隅田川とかで・・・使う・・・苦悩のある女性の・・・この人、何かあった、たとえばお子さん亡くされたとか」
 「それ、その通りよ・・・王太子エドワードは十一歳で亡くなったの、ヨークシャーで」
 「・・・ああ、そうか・・・両シオリの顔だ、これ」
 「理智さん」
 「隅田川のシテは両手で泣くんだよ、死んでしまった息子のお墓の前で・・・看取れなかった幼い息子の墓前で・・・カリューリバーってオペラの原曲だけどね」
 「知っているわ・・・」
 「さすがに隅田川はまだ演じられないけど、実はお家芸なので、稽古はしている」
 「まだ、って」
 「親にはなってないから今一つ感情がつかめないのが原因。こんな状態じゃ隅田川は全然だめだね」
 「聞いた事あるわ、ジョン・レノンが泣いたって・・・それを見て」
悠紀子が言う。
 「言葉はわからなくても、普遍性あるからね・・・テーマが」
 「どうかしたの」
 「この隅田川作った人ね・・・親より先に死んだんだ、世阿弥の息子でね。四十歳未満で殺されたって・・・世阿弥は・・・どう思ったかな」
 「どうかしたの」
 「・・・これは夢かや、あら浅ましや・・・」
 「それ」
 「これは夢なのかしら、なんて情けないことって意味。この言葉、きっと世阿弥は何度も思い返したろうね・・・息子が死んだ後に」
 「ユキ、そのゼアミって人幾つで亡くなったの」
悠紀子は少し考え込んでいた。
 「八十だよ、イングランドの歴史で言うと黒太子の亡くなった時、ゼアミは十四歳くらい、後のヨーク朝のエドワード四世が二歳の時に亡くなったんだ」
理智が答えていた。
 「・・・長生き・・・中世の人なの、百年戦争の頃の人」
 「そうなるね・・面白い事に日本も内乱が続いた時代だった」
 「偶然とはいえ不思議」
 「京都の金閣、火災で焼失する以前のものはこの頃建てられたものだった。銀閣というのもあってそれもその頃のもの」
 「銀閣は当時のまま」
 「そうだけど・・・京都や奈良の神社仏閣の古いものは千年ものあたりまえだから・・・あっ帰ったら、東大寺で奉納があったんだっ」
 「演目決まっているの」
 「ああ、二人静と国栖」
 「・・・大丈夫なの」
 「全然」
 「全然って」
 「稽古始めなきゃ・・・特に二人静、宗本家の若様がシテで僕ツレだから」
 「・・・おっかないわねー」
 「演目決まるの、ぎりぎりだったりするよ、リハなしは当たり前だもの」
 「・・・うそ」
 「ホント。軽いミーティングしておしまい。後は当日合わせるのなんてざら」
 「リハないの」
 「アドリブは許されない、決まったものをやる決まりなんだ」
 「それでリハなし」
 「おかしいのかな、いつもの事だし。自分のやるところは稽古しておくのが当たり前だから・・・やりとりがあっても変化はしないよ。時々台詞忘れて地謡に助けてもらう事も多多あるし」
 「・・・伝統芸能って怖い・・・」
悠紀子の友達はそう言って苦笑していた。


 「どこに行くの、レンタカー借りたりして」
 「梅若丸のお墓」
 「意味解らない」
 「シェリフハットンにミドラムのエドワードの墓碑があるって聞いた」
 「そこに・・・いくのね」
 「そう。梅若塚と同じものだよ」

これは夢かや、あらあさましや・・・

その教会の、小さな墓標。理智も悠紀子も黙ってそれを見ていた。理智の中で、理智の後ろで、あの人が泣いていた。墓標にすがって。これは夢、なんて情けない・・・と。あの人の見たかったものがこんな事だなんて・・・。そして、聞こえた、怨嗟の声。
 「兄上さえ、きちんとしていてくれたら、私はこの子を看取れたのに。この子を抱き締めていられたのに。なんて恨めしい、なんて憎らしい人よ」
 「え・・・」

恨んでやる、憎んでやる・・・あなたを。呪ってやる、あなたを・・・。だから・・・あなたの子を・・・この手にかけても・・・。

 「嘘だろう・・・」
 「否定はするものか、甥殺しを。憎らしいあなたの為にも・・・」
ひらめく軍旗の下にその声が響いて消えた。
 「・・・そういう事か」
悠紀子は理智を見ていた。
 「あなたは・・・心の中で喜んでしまったのね」
 「そうだよ、実の甥の死をね」
 「だから言ったのね・・・鉄輪が・・・あるって」
 「それでも構わないか、悠紀子さん」
 「ええ。構わないわ・・・あなたは人間ですもの、喜怒哀楽があって当然だわ」
 「その・・・怨嗟の声を出し切る為に師匠は・・・僕に「砧」や「葵上」、「鉄輪」をやらせたと思う・・・」
 「出し切る・・・」
 「僕を普通の人間に戻す為にね・・・もう言いたくない怨念の籠もった言葉。もう言わない、いや、言う必要はない・・・帰国したら、兄に面会に行くよ、憎かったけれど、やはり敬愛は変わらないって」
 「そう・・・」
悠紀子は理智の手にそっと触れた。そのまま理智は悠紀子の手を握った。
 「戻ろうか」
 「ええ」


愛しています、愛と尊敬をあなたに。親愛なるエドワード四世陛下・・・。でも、それでも、憎み続ける愚かな弟をあなたは軽蔑しますか。あなたの様に美しい訳でもなく、あなたの様に堂々としていた事もなく・・・曲がった背骨と卑屈になっていく心を抱え続けて葛藤したこの私を、あなたは今も化け物としてさげすみますか。後ろめたさ故に与えてくれた地位よりも、私が本当に望んだものを、あなたは今もきっと理解してはいない。だから・・・。


 「叔父上が僕らに・・・」
 「はい」
与えられた馬具と衣を使い、二人の王子はロンドン塔から姿を消した。その行方は今も解らない。

 「あの子らをどこにやった、答えろ、リチャード。私の子ども達はどこだっ」
弟の腕を掴んで叫び続けるエドワードを冷たい目で見て、リチャードが高笑いをする。
 「知りません」
 「答えろ、どこにやった」
 「知りません。あなたは私から何もかも奪った。私が奪っても、いいじゃありませんか、そうでしょう?」
 「リチャード」
 「あなたを愛したことも事実ですよ、でもそれ以上に憎んだことも事実です。だから・・・あなたにも私の苦しみを味わってもらうだけです・・・、愛してますよ、兄上。そして・・・憎んでますよ、兄上」


因果の小車の
火宅の門を出でざれば
廻り廻れども
生死の海は離るまじや
あぢきなの憂き世や。



理智はそう謡っていた。リチャードが憎悪の顔から穏やかな顔に表情を変えていた。
 「リチャード」
兄王がその頬を撫で、キスをした。
 「生死の海は離るまじや、あぢきなの憂き世や・・・」
亡霊の夢は消えた。