鉄輪(かなわ)その4
東京。妻と長男を亡くし、呆然としていた護。友人の家に泊まりに行っていて難を逃れた長女、生まれたとき、低体重児のため、小児病棟に入院中の次男。 長女は妻の連れ子であり、長男の血筋は怪しむ人が多かった。自宅にいても、ましてまだ鑑識達がいる、仕方がないと判断して、ホテルに向かったが、気分が悪くなり、病院に入った。長女は友人の家に預かってもらった。
 「理智は・・・」
 「帰らないそうです。何があっても」
 「そうか」
 「それに錦木のお師匠さんが海外公演の手伝いを言いつけたそうです。半年近くは戻らないのでは」
 「そんなに」
 「襲名の事がありますし・・・結城の家の事はもう・・・関わらないのではないかと」
 「私は反対したはずだ」
 「養子縁組手続きはもう取ってあるそうですよ、理智様はすでに錦木の人間ですから」
 「では・・・」
 「海外公演のインフォメーション見ましたが、すでに「錦木」の名前を使っていました」
 「そうか・・・」
秘書は至極冷静に話していた。
 「パスポートの変更についてはすでに行っているようです」
 「徹底しているな」
解っていたけれど、理智はもう手元に戻らない事は。妻と結婚した時にあの弟は完全に結城から離れていった。 まだ学生だった。学校に通いながらも内弟子生活をしていた。それを父の妻、義母は許した。義母が錦木の家に理智を託したのだ。 偶然、見聞きした能を見て幼い理智はこれがやりたいと言いだし、義母の従妹の嫁ぎ先に当たる錦木の家に連れて行ってみた。 錦木六郎という師匠は理智を気に入り、手元に引き取り育てると申し入れてきた。それを義母も了承した。理智は義母にだけ親しんでいた。 義母はそれこそ我が子同然に育てていた。よくも手放せるものだとなじったが、義母は理智のやりたいことをよく知っていた。
 「それでも、帰って来てほしいのだが」
 「無理だと思います。謙さんが亡くなった時のこと、お忘れですか」
 「・・・そうだったな」
ほぼ自殺と言ってもいい死に方だった。譲の妻はその知らせを聞いて半狂乱になり、その後、入院先の病院で奇怪な死に方をした。
 「奥様の事、謙様の奥さんのご家族が恨まないとは」
 「まさか」
 「はい、どうか」
 「まさか・・・そんな馬鹿な」
護の想像は当たっていた。譲の妻の叔父が自首し、犯行を全て自供した。


知らせを錦木の関係者から全て聞いた理智は冷静だった。ロンドンで待ち合わせし、「申し合わせ」をして、そのまま地謡の席についた。 「隅田川」と「羽衣」だった。他流だったが、海外公演にも予算があり、完全にスタッフをそろえられる訳ではない。他流であっても、シテ方ならば、打ち合わせ次第で何とかなるものだ。

いや疑ひは人間にあり
天に偽りなきものを

その言葉に理智ははっとした。天に偽り・・・か、と思う。「隅田川」は梅若丸の忌日三月十二日を過ぎると日本では公演することは絶対にないが、海外ではストーリーのわかりやすさから忌日に構わず上演されていた。


 「本当は、駄目なんだけどなー十二日過ぎてるもんなー」
他流のシテ方が言う。
 「理智さん、やりにくいですか」
その中でもあまり馴染みのない男がそう言った。
 「いいえ、大丈夫ですよ、次はパリですね、あと宝生の方々でしたっけ、東欧の方に行くとか」
 「その後はそちらの流派でアメリカ公演がありますよ、理智さん、シテ勤めるんでしょ」
 「ええ・・・苦手なんですけどね」
 「修羅物が苦手だなんて、理智さん、若いのに」
 「はったりが効かないんですよ」
苦笑いして理智は言う。
 「そんなこと・・・」
 「理智さん、大人しい人だから・・・」
 「僕はね」
ワキ方の若い男が言い出す。
 「理智さん、もっと感情を出した方がいいんじゃありませんか、よく我慢してますね」
 「我慢しているつもりはないんですけどね・・・」
理智はそう言った。
 「育ちのせいじゃない、あんな大金持ちの家だしさ」
 「そこが嫌で、錦木の家に入ったんだよ」
まだ小学生なのに、彼は内弟子生活をしていた。そのことはこの世界では有名だった。里親という形で錦木の家に引き取られたのだ。
 「で、正式に養子縁組して錦木か」
 「そうだけど」
もうパスポートにも変更がなされていた。
 「それに日本では大騒ぎなのでしょう、上の兄の家族の事とか」
 「まあ、そうだけど・・・」
 「ゆず兄さんがあんな形で死ななければ、帰っていたかも知れないけど」
 「ああ、あれねえ、やはり再捜査入るらしいよ、ほら犯人が」
 「そう・・・」

沈みしは水の青き鬼
われは貴船の川瀬の蛍火
頭に抱く鉄輪の足の
炎赤き鬼となって
臥したる男の枕に寄り添ひ
いかに殿御よ 珍しや
恨めしや御身と契りしその時は
その時は玉椿の八千代
二葉の松の末かけて
変はらじとこそ思ひしに
などしも捨て果て給ふらん
あら恨めしや
捨てられて
捨てられて
思ふ思ひの涙に沈み
人を恨み 夫を託ち
ある時は恋しく
または恨めしく
起きても寝ても
忘れぬ思ひの因果は今ぞと
しらゆきの消えなん
命は今宵ぞ 痛はしや・・・

理智は手にしていた謡本を見ていた。
 「パリで鉄輪やるって本当なのかな」
 「あーそうらしいですよ、地謡、頼まれましたか」
 「まーそうですね、でも・・・流派また違うし」
 「レストランで、まで見なくても」
 「忘れちゃったんですよー、仕方ないでしょ。ソレでなくても先生と来たら」
 「難曲ばかりですもんね」
 「人間の生身の感情がほとばしり出るものばっか」
 「はは、そりゃ大変だ」
若手だけで食事を取るのは公演の時は多い。年配の先生方は先生方で付き合いもある。ロンドンのホテルはヨークの安宿とは全然違い、環境も良かった。ホールもオペラの劇場だったり、演劇専門のホールだったりもした。
 「イギリス公演は二週間くらいですか」
 「グラスゴーとエジンバラ、それにヨークにも行くんですよ」
 「それは聞いてますけど、僕は」
 「あー錦木先生から頼まれたとか。うちの父が」
彼は師匠は父親で、代々シテ方の役者の家に生まれた青年だった。
 「公演、全て羽衣と墨田川ですか。さすがにもう墨田川は外すそうです。修羅物になりますよ」
 「そうでしょうも、いくら何でも四月になるのに・・・」
 「旧暦では、とか言ってごまかしたんですからねえ」
 「あーそう言えば・・・旧暦ではまだですね」
レストランを見回すともう彼らの師匠筋に当たる人達は部屋に引き上げたのか、姿がなかった。
 「修羅物はいつも地謡なので・・・なんですか」
 「忠度だそうです」
 「ヨークでも」
 「ええ」
 「パリのは・・・」
 「僕らが帰国してからですよ、だからつきあって下さい」
 「そうします」
 「それで・・・ヨークの、なんですけど」
 「何か」
 「その日のシテの人、ほら、森さん」
 「あーどうかしたの」
 「おじいさんが亡くなったので帰国しちゃったんですよ、で、披いた事のある人って・・・」
 「他流ですよ、僕は」
理智が冷や汗混じりに言う。
 「お願いしておけと師匠に言われました」
 「えーっ」
驚いて変な声をあげてしまったが、理智は結局は引き受けた。


 「理智さん、戻ってますよ、ただホテルに滞在するそうです」
悠紀子はそうセシリィに告げた。
 「あら」
 「お仕事だそうです」
 「まあ・・・」
劇場には立ち見席しかもうなかったとセシリィの夫が言う。
 「シテ、まあ主役、理智さんがつとめるそうです、この「タダノリ」という番組は」
 「あの子が」
ホテルの名前を聞いて面会に行ってみた。悠紀子を伴って。
 「あ、悠紀子さん」
黒い紋付き、袴を身につけ、髪をくくり、ロビーに下りてきた。
 「今、練習していたんです、他流なので、色々違うので」
 「そうなのですか、あの流派って」
 「五つあるんです。その中でも細かく別れていて・・・能はシテとワキ、ワキ方、太鼓、鼓、笛、全部流派が別れていて・・・兼業はしないんです。専門しかしない。僕はシテ方なので、シテと地謡と後見が専門です」
 「専門に分かれているの・・・」
 「ええ、昔から。それに狂言方も加わりますけどね」
 「主役は主役しかしない・・・」
 「そうです、あのお母さん、どうかしましたか、顔色が悪いけれど」
日本語で言った言葉を悠紀子が通訳した。
 「いいえ、何でもないわ」
 「その状態で立ち見は危険です、関係者ということで、パックステージからにしましょう、少々お待ち下さい」
理智はそう言うとスタッフに言付けて、母と悠紀子、母の夫の分の席を舞台のすそに用意するよう申し入れてみた。ヨークに招いた関係者が気を利かせて三人分を観客席に用意してくれた。
 「助かりました、教授にはお礼しておきませんと」
 「え」
 「ヨーク大学の舞台を研究している教授が奥様と研究生とご自分のチケット、譲ってくれたそうです。驚いてましたよ、僕がこの国の血を持ってるなんて」
 「あら」
 「でも・・・不思議なのですけど、僕の顔っておかしいのですか、みんなびっくりするんですよね・・・誰かに似ているのかしら」
 「・・・ええ、まあ確かに似てますけれど、東洋系ですから、その」
 「ああ、平たい顔ですよね、この国の人に比べれば」
笑って言うと悠紀子は苦笑していた。
 「そうそう、説明する・・・なんかイベントがあるとかで、それはどうしますか、僕、仕舞をするのですけど・・・」
 「見たいそうです」
 「解りました。ヨーク大学の一室を借りましたので、舞台の翌々日に。ああ、そうそうワークショップとか言うのでしたっけ」
 「楽しみにしているわ、理智」
母の言葉に理智は頷いた。


鏡の間と呼ばれる支度部屋で理智は鏡を見ていた。不思議な物で能の装束を身につけ、本番前の理智の鏡には彼は現れない。だが、今回は違っていた。鏡の中でゆっくりとお辞儀をし、すっと消えた。それを見て、理智は頷いていた。
 「まさともさん、出ます」
 「はい」
前に置かれた能面を手に取り、一拜してから裏返し、顔にあてた。この中将の面はあまり理智にはそぐわないかも知れない。でも、代役である以上は仕方ない。後見が面の紐を結びつける。前シテは老人の面だったが、ここからは違う。

花こそ主なりけれ・・・



 「舞台はよく解らなかったわ・・・」
セシリィはそう言った。
 「無表情に見える面がどうしてあんな風に見えるのか不思議だ」
セシリィの今の夫、ジョンはそう言った。
 「ワークショップは仕事で行けないが、大丈夫だよな、セシリィ」
 「ええ、あなた」
理智はそんな会話を知らない。面を外した直後、囃子方、ワキ、等のスタッフに礼を述べ、それから装束を解いた。
 「お疲れ様でした」
 「いいえ、こちらこそ」
ふと顔をあげると鏡の中に彼がいた。
 「花や今宵の主・・・」
ふと呟く。彼の手には見事な山桜の枝があった。
 「それこそ花・・・か」
理智はその夜は熟睡した。久しぶりの事だった。朝、理智はヨークミンスターに向かった。一段上の壇上に白薔薇を象った敷石の上に白い棺がある。アルバローズか、他の種類か、必ず白い薔薇が飾られてある。
 「なんで重なるのかな、修羅ものの人達と・・・戦死したからなのかな」
その棺にもたれかかり、理智は手を組んだ。
 「あなたとは宗教が違う。異教徒の祈りでも、受け入れて下さいますか・・・」
日本語で呟く。英語は相変わらず、喉が締め付けられてきて途中で途絶えてしまう。
 「昨日、忠度という武将を演じました。彼はきっと生きていたかった、生きて歌を極めたかった・・・それが出来ないのなら桜の花に宿って・・・見守りたいと思った。そう思って演じましたけれど、あなただったら、どうしますか」
理智の姿を見た司教は絶句していた。かの王が蘇った様な姿だった。
 「また、機会があったら、来ます・・・」
退席しようとして、足を止めた。結婚式をしていた。司教はそのままそこに留まるように理智にしめしていた。 が、そのジェスチャーを理智は見過ごしていた。そっとその霊廟から退席しようとしたが、そばにあった譜面台にぶつかり、物音が立ってしまった。
 「しまった・・・」
結婚式の列席者が理智を見て全員驚いていた。司教が落ち着くようにしめしていた。まだ英語はうまくしゃべれない。戸惑いながら、いつも持ち歩く筆談用のスケッチブックを取り出し、無礼をわびた。
 「え・・・」
手話を使ってみた。通じたらしい。もっと事情を話すと、手話の解る人はそれをそのまま口上してくれた。
 「助かります」
つい日本語で呟く。
 「英語では声が出ないのね」
頷くと彼女は解った、と言う。手話で何故驚いたのか、説明してくれと言う。彼女は苦笑したが、説明には困っている様子だった。手話でこの王と似ているからですか、と聞いてみたら、そうだという。
 「そんなはずないと思いますよ」
日本語で言い、スケッチブックを閉ざし、手話もやめた。お辞儀をし、大聖堂から出て行くことにしたが、理智は足を止めた。
 「どうして・・・」
花嫁を見ると日本人女性だった。
 「もしかして日本の方ですか」
 「はい、そうです」
 「ご親戚の方とか」
 「いません、みんな反対していて」
彼女は泣いていた。
 「そうですか」
理智はそっと聖歌隊の立つ位置に移動した。
 「失礼いたします」
持っていた鞄から扇を取り出し、一礼した。そして「高砂」の一節を謡った。それは朗々と響いた。
 「えっ」
花嫁は静かにお辞儀をした。
 「ありがとうございます」
 「いいえ」
 「・・・錦木理智さんですか、能役者の」
 「はい、そうです」
花嫁は深くお辞儀をした。
 「ありがとうございます。ここで母国の言祝ぎの謡を聞けるとは夢にも思いませんでした。まして七世錦木六郎となられる御方の謡など身にあまる光栄です」
 「いいえ・・・お耳汚しで」
花嫁の挨拶は英語で、理智もまた英語で返していた。
 「あれ、言葉でる・・・なおったのかな・・・」
そのつぶやきも、また英語だった。
 「ニシキギロクロウって有名なシテ方の」
列席していた舞台研究者の学生が言う。
 「たしか六世は病気で・・・若い弟子が後継者になるとか・・・」
 「私がその、ニシキギロクロウの養子で、ニシキギマサトモと申します。今年の十一月に襲名いたします」
 「襲名・・・」
 「すみません、結婚式の邪魔をして。失礼いたします」
最敬礼して去っていく理智をみな黙って見送っていた。
 「夕べ、舞台見たよ、彼の」
 「えー、あの能の人なの、あの人」
 「何か知らないけど、迫力あるわよね、何なのかしら」
 「特別な人だから・・・まさか・・・有名なあの人の謡を聞けるなんて俺、思わなかったぜ」
列席者の若い男がそう言った。花嫁はじっとたたずんでいた。
 「幸運、なのだろうか」
花婿が聞いた。
 「幸運だと思うわ。襲名前の彼の謡なんて・・・今後襲名したら彼はもっと大変なはずよ」
 「そうなのか」
 「伝統芸能の人だもの・・・」
きっと自由に出歩きは出来なくなるに違いない。まして名跡。
 「天才だと言うけれど・・・能の家に生まれていない上、混血だからきっと苦労はしたはずよ」
 「混血・・・」
 「お母様がイギリスの人なの、しかもこのヨークの出身」
 「縁があったのか」
ウエディングベルが鳴り、花嫁花婿が大聖堂から出てきた。また理智は大聖堂の入り口にある道路にいた。おめでとうの声の中、花嫁花婿を見守っている理智に列席者は気付いていた。
 「お幸せに」
日本語と英語でそう述べると静かに立ち去っていく。ホテルへと向かい、謡の本を取り出し、ホテル前の広場に座った。仕舞の部分を何度も読み返す。
 「敦盛か・・・幸若舞にもあったな・・」
織田信長が自刃前に舞ったという伝説のもの。
 「人生五十年、化天のうちにくらぶれば、夢幻の・・・だったっけ・・・」
謡本をまた取り出し、読み出す。
 「まずい・・・部屋に戻ろう、仕舞・・・したくなった」
立ち上がってホテルに戻り、皆が借りているレセプションルームに入り込んだ。
 「あれ、理智さん」
 「ここ、ちょっといいかな、確認したくなっちゃって・・・」
 「どうぞ」
 「敦盛ねえ・・・」
 「風変わりな修羅ものなら結構いけますよね、理智さんって」
 「そうですか、あ、着替えます」
その部屋の隅に置いたままになっている自分の紋付き袴を取り出し、ついたての奥で着替えた。扇を手に中央に進み、そこに正座した。
 「お頼み申し上げます」
地謡を頼み、仕舞の稽古を始めた。
 「熱心だな・・・また、夕べが終わったばかりで」
 「朝早く、どこかに行ってきたみたいですよ、機嫌がいいみたいで」
 「・・・そう言えば、顔色がいいな、今日は」
師匠とは竹馬の友と言われる他流のシテ方の役者がそう言った。
 「ろくちゃんが気にしていたけれども大丈夫そうだ」
 「あー錦木先生、気にしておいででしたか」
 「そりゃ気になるさ、実家があんな事になって」
 「それで海外公演の手伝い、引き受けたんですかね」
 「引き受けさせたらしい、思い込むと厄介な性格しているからナ、理智君は」
 「・・・そういう事ですか」