鉄輪(かなわ)その10
 「その話はどんな話なのだ・・・」
松の描かれた壁の前に彼が座っていた。鏡の松と呼ばれる松だ。
 「目の見えない人の話ですよ、そのために親兄弟に見捨てられるんです・・・彼は家族を恨まない、全盲であることも恨まない・・・受け入れるんです、そんな彼を父親が迎えに来て、彼は家に戻ります。でも・・・一度拒絶した家族とよい関係を彼は・・・きっと築けない」
 「築けない、か・・・背中の痛みは・・・並大抵のものではなかった・・・」
 「え・・・」
 「背骨が彎曲しているのだよ、私は」
 「ホントに、言うなれば・・・」
 「横に、だ、後ろにではなく」
 「側湾症か・・・若年性の・・・」
 「訳のわからない病だったため、家族中から疎まれた、母だけがそばにいた。シェークスピアの彼女は我が子を呪ったが、実際の彼女は北部に赴くと告げただけで泣いた。手離したくない、そばにいてくれと泣いた、赴任していくなんて、あんまりだと」
 「・・・それであなたは」
 「ロンドンは嫌いだから離れて・・・戻った時には違う地位にいた。母上は変わらず前の屋敷に。私が死者になったときもその屋敷に。体調の良いときにフォザリンゲイの修道院へ行って・・・そこで亡くなられたという」
 「あなたは・・・兄上に逆らったのですか」
 「結果的にはそうなる」
 「家族を裏切った」
 「そう、裏切った・・・」
いっそのこと、目が見えない方が良かったかも知れない、この背中の病が解った時、俊徳丸のように捨てられた方が良かったのかも知れない。世間がどんなものか、見えたとき、俗世を離れるべきだった、と。
 「この弱法師も、また家族を裏切り続けるしかない・・・」
差別と偏見が家族の中にさえ、あると、彼もまた告げる。


出入の
月見ざれば明暮の
夜の境をえぞ知らぬ
難波の海の底ひなく
深き思ひを人や知る
それ鴛鴦の衾の下には
立ち去る思ひを悲しみ
比目の枕の上には
波を隔つる愁ひあり
いはんや心あり顔なる
人間有為の身となりて


憂き年月の流れては
妹背の山の中に落つる
吉野の川のよしや世とも
思ひも果てぬ心かな
あさましや前世に誰か厭ひけん
今また人の讒言により
不孝の罪に沈むゆゑ
思ひの涙かき曇り
盲目とさへなり果てて
生をも替へぬこの世より
中有の道に迷ふなり
もとよりも
心の闇はありぬべし・・・


彼は微笑んだ。
 「心の闇はありぬべし・・・」
彼の笑みは万人を魅了したと言う。が、その笑みを見る事が出来た人物は極限られていた。
 「心の闇はありぬべし」
その彼の腕を引き寄せる人がいた。
 「兄上」
 「もうよい、リチャード、こちらにおいで」
彼は緩やかに首を振った。
 「あなたには・・・見えないのか」
 「何を、だ」
 「あなたを呪う呪術の道具が私の手に、頭上にある事・・・」
 「知っている」
 「ならば・・・解き放って下さい、この呪縛から。兄上、最愛のエドワード四世陛下」
理智こと錦木六郎はその言葉を告げた弟をただ見ていた。
 「私はおまえを放すつもりはない」
何かがはじける音がして、黒髪の彼は消えた。
 「リチャードっ」
その叫び声を理智は聞かなかった。


花をさへ、
受くる施行の色々に、
受くる施行乃色々に、
匂ひ来にけり梅衣の、
春なれや。
難波の事か法ならぬ。

遊び戯れ舞ひ謡ふ。
誓ひの網には洩るまじき。
難波乃海ぞ頼もしき。
げにや盲亀の我等まで、
見る心地する梅が枝の、

花乃春の乃どけさは
難波の法に、よも洩れじ、
難波の法に、よも洩れじ


 「北部で私はそれなりに幸せでした・・・現実に引き戻さないで下さい、兄上」
 「戻って来てくれ」
 「いやです」
肉親の情に訴える兄と、それを拒絶する弟。けれど、俊徳丸は家へ帰るのだ、そこに抗いがたい宿命が待っていたとしても。

弱法師の面を外し、理智は息を整えた。そして、面々に向かって礼を述べた。
 「すみません、今日はなぜだか・・・」
 「いいえ、素晴らしかったですよ」
あの若様がそう言った。
 「どうして・・・」
 「俊徳丸の迷いがにじみ出ていて、素晴らしかった」
 「迷い、ですか」
 「ええ、人間、そうそう悟れませんって」
 「悟れない・・・ですか」
リチャード王が鏡の中にいた。諦めの漂う微笑みを浮かべていた。
 「帰りたい、けれど帰れない。私は不虞の、異形の身の上ですから」
それを嘆くでもなく、卑しむ事もなく、彼はただ鏡の中にいた。若様はそれに気付いていた。
 「六郎さんの後ろの人は本当におきれいな御方ですね」
鏡の中のリチャード王がはにかんだ笑顔を浮かべていた。そして、ゆうるりと首を振った。
 「違うそうですよ」
 「本来なら誰からも愛される要素のある御方と存じます」
若様はそう言って、楽屋から出て行った。
 「よかった・・・」
鏡の中の王が微笑んだ。理智の安堵は理智の演技についてではない。それを王は知っている。


獄中の兄が体調を崩したと連絡があった。
 「どんな様子なのですか」
担当弁護士に聞いてみると、彼は沈んだ顔をしていた。
 「思わしくありません・・・余命半年、いえそれ以下かと診断されました」
 「そうですか・・・」
理智は震える手を膝の上に重ねる。
 「見舞いには行けますか」
 「それは許可は下りています。肉親ですからね、他家の名前を名乗っておられても」
 「解りました、近いうちに見舞いに行きます」
弁護士の事務所は古いビルの中にあった。年代物のビルには不思議な装飾が施されていた。ビルの外観は昔ながらのものだったが、内装は耐震構造のためにあちらこちらに補強材が走り、見栄えのよいものではなかった。
 「このビル、壊すにもお金が要りますし、こんな内装になってしまいました」
弁護士は溜息をついてそう言った。古びた品物ばかり使って彼は仕事をこなしていた。父親の代から使っているものはやはり年代物で、品質がよい。が、パソコンなどの近代的な機材を使うには誠に不便な代物だった。が、彼はそれを改めるつもりはない。戸棚に は天秤を持ち、目隠しをした女神の小さな像があった。法廷の印の女神。それも先代からの品物だった。
 「付き添います。僕が同行した方がよろしいでしょう」
 「ありがとうございます」
理智はこの事務所を何度も訪れていた。兄の関係もあるが、錦木の家に入るにあたり、実家の養母と何度も来ていた。養母とこの弁護士の父親だった人は遠い親戚同士になるという。彼の父親は隠居してこの事務所にはもう顔出しはしないが、随分と世話になった。


帰宅し、着物、袴に着替えると弟子達を理智は出迎えた。プロの弟子ではなく、素人の、趣味で謡を習っている人々。週に一度、通っている人達だ。中年女性もいれば、若手の元歌手、大学生の女性が理智の弟子となっていた。
 「先生、どうかしましたか」
 「いいえ、たいした事ではありません。すみませんね、心配かけて。では、今日は・・・井筒から・・・いたしましょうか、最後の場面を・・・続いて下さい」
ここに来て
昔ぞ返す在原の
寺井に澄める月ぞさやけき
月ぞさやけき

月やあらぬ 
春や昔と詠めしも
いつの頃ぞや

筒井筒
筒井筒
井筒にかけし
まろがたけ
生ひにけらしな
生ひにけるぞや
さながら見みえし

昔男の
冠直衣は
女とも見えず
男なりけり
業平の面影
見ればなつかしや
われながらなつかしや

幼なじみの儚い恋の夢。それを理智の後の人は静かに静かに聞いていた。もう彼は失ってしまった妻を見つけられないのか、ふと理智はそう思った。
 「アンにもう逢えないわけじゃない」
彼はそう言って微笑んだ。彼女と暮らした北部の城は快適だった、ずっとその幸せが続くと思っていた、と彼は言う。兄上さえ達者でおられたら、と呟く。

理智の弟子達は帰って行った。稽古の時間だ。彼は一人で舞い続ける。悲しみを憎しみを忘れる為にも舞う。扇を閉じ、舞台を模した稽古場に膝をつく。
 「まだ、僕は・・・兄さん達を恨んでるのか」
あの人が立っている。
 「こんなにも年月が過ぎ去っていったのに、私はまだ、兄上一家を恨んでる・・・北部での幸せをよくも壊してくれたな、と」
いつも穏やかな彼ではなく、そこにいるのは、かの文豪シェークスピアが描いた野心家の、醜悪な王にとてもよく似た姿だった。
 「不思議か、私とて人間だ・・・心の闇はあるものぞ」
 「でも、あなたはいつもそれを表面に出す事はほとんどなかった」
 「あなたには解ってしまうからな・・・甥達を殺したのは私だ」
それは真実か。理智が疑問を抱く。
 「死んでしまえはいいのに、と願った・・・邪魔だったし」
うっすらと笑った笑みは魔性の笑みだった。
 「まさか、あなたは」
 「真実だよ、上の子は私がこの手で北部の城で殺した。もう一人は・・・ヘンリーが処刑した」
 「ヘンリー・・・」
 「ヨークは滅ぶべき一族なのかも知れぬと解っていたよ」
 「違う」
 「何が違う、王家の血、それが何なのだ、プランタジネットの誇り、それが何だと言うのだ」
ただの人間だよ、と彼は笑った。だから。だから私は甥をこの手にかけた、彼はそう言う。
 「死んでしまえばいいのに、あの女の子供など」
 「あなたは・・・」
 「そう思っているのに、上の娘を一人の女として見てしまった私がいる。そして、その子も。姪に恋をするなんて、なんてバカな・・・彼女には未来がある」
 「え」
 「この身体では長生きは出来ない・・・戦死がなくてもさほど私は・・・」
 「意味が・・・」
 「頑健な身体を持った者には解らない・・・いや、そなたは違ったな、生まれつきの病を抱えていたか」
 「僕にあった劣等感があなたにもあったと言うのか」
 「努力しても手に入らないものはあるものだ」
彼は消えていった。
 「手に入らないもの・・・」
国王の座は彼には苦悶を味わわせるだけのもの。苦しかった、と誰に言えば良かったのだろう・・・。理智は稽古場から自宅に戻ると着替え、ドキュメンタリーものの映像をモニターに映し出していた。指導者・国の代表が栄光なのかというとそれは嘘だ、と思う。モニターの中で若き大統領が凶弾に倒れていく。半狂乱の美しい妻が彼の飛び散った頭蓋骨を拾っている。彼女はもう夫が帰らないことを知っている・・・。彼は幸せだったのだろうか、ふとそう思う。
 「あなた・・・」
 「ああ、ごめん・・・ケネディは幸せだったのかな」
 「私は不孝だったと思うわよ。お兄様が生きていたら彼はこんな目に合わずに済んだもの。背中と腰に病を抱えて一生格好良い大統領を演じ続けなければならなかったんだもの」
はっとする。格好のいい大統領を演じ続けた人。あの人が一緒にそれを見ていた。
 「死んで初めて解放された、一族の呪縛から、私と同じだ・・・」
 「それは」
 「人という者はいつまでたっても悩みがつきないものだ」
それでも、生きていた。その瞬間まで。理智は低く、頼政を詠っていた。血の海の中、生への渇望を露わにし、死んでゆく武人の声を。

血は?鹿の川となって
紅波楯を流し
白刃骨を砕く
世を宇治川の網代の波
あら閻浮恋しや
伊勢武者は
皆緋?の鎧着て
宇治の網代に
かかりけるかな
うたかたのあはれはかなき世の中に
蝸牛の角の争ひも
はかなかりける心かな・・・

血を吸い込んだあの荒野は遠い。

 「一度ボズワースに行ってみたいものだな」
 「あら・・・どうして」
 「なんとなく・・・せっつかれている気がする・・・あそこに行ったらきっと・・・修羅ものがつかめる気がするよ」
 「そう・・・」
悠紀子はそう言ってモニターを見ている夫の横顔を見つめていた。舞台に生きる人。理智は一つだけの人生を生きる人ではないのだ。それを承知で嫁いできた。ジャッキーという愛称で呼ばれた大統領夫人の消えてしまった想いがふと、悠紀子にも届いたように思えた。


見舞いに行くと兄はたいしたことはない、と笑った。それに安心しきっていた、と理智は思う。呼び出されたときにはすでに兄は亡骸になっていた。あの王と同じように、直に最後の声を聞くこともなく、別れた。永遠の別れだった。
 「遺言は」
 「悦子さんのみに・・・理智さんには結城の事は気にするなと伝えて欲しいと」
 「そうですか・・・」
どこかほっとしている自分に理智は気付いていた。
 「確かに僕は錦木、ですしね」
 「そうではありません・・・あなたはあなたで生きていて欲しいと願ったのですよ、やっと」
 「なら充分です」
葬儀に列席は出来なかった。仕事が入っていた。それは仕方がない。親が死んだとしても、駆けつけることの出来ない仕事についたのだから。かえって良かった、と思った。病院での別れで充分だと思う。
 「それで良かったのか」
 「いいえ、良いわけはないと思いますよ、陛下」
祈っても祈っても、鎮魂の祈りは届かない。理智はそう思った。
 「休みを取ろうと思います。このままでは舞えません、謡えません・・・」
心の中に憎しみも悲しみも抱え込んでいたのなら。
 「神にも天女にも恋する乙女にもなれぬのなら、仕方ありませんよ、陛下、私は役者です。私を通してかつてあった人々の思いを伝えねばならない身の上です。渦巻く感情を舞台に叩きつけてはならないのです・・・」
 「厳しいものだな・・・私の人生も、またそなた演じるのか」
 「はい・・・そのためにも、祈らねばならないと思います・・・巡礼にでも」
行くのか、とその人は聞いた。
 「ええ、兄の四十九日までには決願を」
 「決願・・・」


 「どうしても行くの、まったく君もしょうがない」
若様はそう言って苦笑した。病床の先代も納得した。
 「行っておいで、理智」
そう告げた先代はからりと笑っていた。
 「そんな顔をするな、わしはそうそう死なんよ」
 「それは解ってますよ、お父さんはしぶといお人だから」
 「おまえは・・・ほんとによい息子だな」


四国。神戸から淡路島を経て四国に入った。発願の寺がある町で、理智はカジュアルな服装の上に白い遍路の袈裟をまとい、菅笠をかぶり、杖を手にした。
 「同行三人か、私は」
杖を見る。それには同行二人とある。お大師様と同行と人が言う。歩いて歩いて寺を繞る。山を越えて着いた寺で、もてなす人が口にした言葉に理智は驚いた。
 「ご同行の御方に傘も袈裟も杖もないとは・・・」
 「私に、同行の・・・」
 「ええ、あちらに」
白いシャツに淡い色のタイツに似た脚を覆う衣服、淡い色のブーツ。その人がベンチに腰掛けていた。顔は見えない。
 「あの人ですか」
 「そうですよ」
お接待の老婆の言葉に理智は頷き、袈裟と傘、そして杖を買い求めた。そしてそれを手にベンチの人の元に向かった。顔を上げて理智を出迎えたその人は、いつも鏡にいるあの人だった。
 「やはり、同行三人、なのですね」
差し出された衣服をその人は見つめていた。そしてそっと手ほ伸ばす。触れる。驚いた顔を上げる。
 「どうして・・・」
 「では・・・」
袈裟を広げて肩にかけると彼はその袈裟を見ていた。
 「着て下さい」
こくんと頷き、彼は袖を通した。杖を渡す。その杖を見つめ、文字に気付いて指さす。
 「同行二人とあります」
 「二人・・・この霊場を開いた僧侶の魂とともに歩くという意味ですよ」
 「私は異教徒だぞ」
 「関係ありません。この国の宗教はどの教えであろうとも異端とはいいません。全て受け入れます」
 「受け入れる・・・」
 「弘法大師、空海が救いを求める人を拒むわけはないのです」
 「異教徒であろうとも、か」
 「御仏には関係ありませんから、そんなことは」
 「そんなこと、か」
 「ああ、ただし、十字は切らないで下さいね、そのサインは通じませんから」
 「・・・そうか」
 「合掌と挨拶で、充分ですよ、行きますよ」
 「・・・そうか・・・それでいいのか」
不思議な彫像があるお堂。それに手を合わせて、理智は般若心経を唱えると下がっていき、朱印帳を取り出し、一筆書いてもらった。一日に二カ所、あるいは三カ所参拝して歩く。
 「歩き遍路は珍しいんですよ、四十日かかりますからね・・・」
お接待の宿に泊まりながら、歩き続ける。
 「不思議だな」
 「遍路から金品を要求しては功徳がないと言われますからね・・・」
最低限度の金額で宿泊、食事をすまし、理智は歩く。共に歩く彼は見える時もあれば見えない時もあった。賑やかな町では彼の姿は認められず、田舎の、静かな朝晩にしか彼は姿を見せなかった。
 「サンティアゴとはずいぶん違う・・・」
キリスト教徒の巡礼地。歩き遍路は珍しいらしく、お接待の宿ではよくしてもらっている理智がいる。その横を黙って、あるいはぽつりぽつりと語らいながら彼は歩いた。彼の姿は見える時もあれば見えない時もある。田舎のお接待の老人達は彼の姿が見えるらしく、お菓子や果物等を差し出してくれた。それを彼は微笑んで受け取る。触れられる不思議さは理智にも解らない。
 「何を祈っておるのだ、そなたは」
 「やっと祈れます」
 「やっと・・・とは」
 「甥と、義理の姉、そして兄の幸せを、です。生きていても死んでいてもそれは構わない」
 「そうか・・・聞いて欲しい」
 「はい」
 「私は甥をこの手にかけた」
 「それは真実ですか」
 「まことだ。エドワード五世は私が殺した。ヨーク公は生き延びたが、な」
 「どこで」
 「シェリフハットン」
 「あの城、で・・・」
カラーンと理智の杖が音を立てた。
 「あなたが・・・」
 「権利を守るためだ」
解っている。彼は王だ。王である事の重圧を知っている人だ。
 「拾ったらどうだ、尊いお方に失礼であろう」
 「ああ、そうですね・・・」
杖を拾い上げ、四国の山道を歩く。たどり着いた寺で祈る。とうの昔に消えていった幼子のために。そして自身の甥の為に。
 「祈りの波が変わった・・・あの子達の為に祈ってくれるのか、そなたは」
 「ええ、あなたの為にも」
 「私はいらぬよ」
微笑んで彼は遠慮する。四十日ほど巡り歩き、決願の寺に着く前に、彼は消え失せていた。杖を手に最後の寺に参り、理智は東京へ戻るべく、支度を調えた。最後の寺の近くの宿に悠紀子が来ていた。
 「どうして・・・」
 「とある御方が夢で教えて下さったの・・・」
 「ああ・・・それは不思議な事が・・・」
 「若様から連絡もあったのよ」
 「また今度は何を・・・」
 「襲名公演、海外の企画したから、よろしく、ですって」
 「あの人は本当に・・・」
笑って理智は装束を解いた。兄の四十九日の法要には間に合っていたが、欠席することにした。


 「シェリフハットンの城、か」
八月に海外公演を計画したというが、場所は聞いてなかった。早速電話をかけた。
 「何を計画しているんですか、若様、怖いなあ」
 「何いってんの、君はうちの流派でも実力者なんだよ、自覚してくれなきゃ。それにせっかく襲名したんだから、お母様に見せてさしあげたらどうなんだい」
 「母の事は・・・」
「意識するなとは言わないよ。いや、むしろ意識してやって欲しいと思う。理智さん、感情殺しすぎ。も少し素直になったらどうよ」
 「若様・・・いいですよ、受けて立ちましょう」
ちらりと鏡を見る。彼は四国から戻ってからあまり姿を見せなくなった。電話を切り、舞台へ向かう。理智は妻と能楽堂の上にある住まいに住んでいた。先代はその住まいから転居した。病で引退同然であり、医療老人ホームに夫婦で入っていた。いつ死んでもおかしくないと医者に宣告されていた。覚悟はしていたが、早すぎる。教えを請うことはもう出来ない事は知っていた。だから、宗本家に出入りするようにした。稽古不足、覚悟不足ととらえられるのは嫌だった。ふと鏡の松の前に彼がいる。
 「もう姿を見せないかと思いましたよ」
 「それは出来ない・・・そなたは私なのだから」
豪華な縫い取りのある衣装、シェブロンと呼ばれる帽子には独特のブローチには美しい宝石。指には王侯貴族ならではの豪華な指輪。紋章指輪もはめていた。
 「今日は随分・・・」
 「豪華、か。この舞台の上では正装した方がよいかと思ってな」
この舞台は理智の仕事場であり、戦場でもある場所だ。それを彼は意識していてくれた。優しい気遣いの出来るこの人が、事実甥を手にかけたのだろうか。
 「頼朝の気持ちがわかるなどとは言わない・・・」
むしろ彼は義経の立場の人だ。
 「ベシーの、姪のお付きの人々は兄上のお仕着せを着て彼女を迎えにいったそうだ。リッチモンドの妻にするために」
 「彼女は納得・・・」
 「無理にさせた。ヨークの血筋を残すために」
 「そこまで見通していて何故・・・」
 「古くよどんだものは去るべきだ。ましてこんな異形の身の上で王だなんて、なんとおぞましい事か」
 「でも」
 「解っていても私はちっぽけな人間だ。だから今も兄上を恨んでる・・・そなたの・・・謡を・・・鉄輪と言う・・・」
 「・・・それは」
 「聞きたい」


恨めしや御身と契りしその時は
その時は玉椿の八千代
二葉の松の末かけて
変はらじとこそ思ひしに
などしも捨て果て給ふらん
あら恨めしや
捨てられて
捨てられて
思ふ思ひの涙に沈み
人を恨み 夫を託ち
ある時は恋しく
または恨めしく
起きても寝ても
忘れぬ思ひの因果は今ぞと
しらゆきの消えなん
命は今宵ぞ 痛はしや・・・

ふと見回すと彼の姿はなかった。