鉄輪・サイトウサンのサイナン
 「あの・・・落とすんですか、持っていたいんですか、あなたは」
ロンドンの街中、理智(まさとも)はそう言った。理智の顔を見ては拾ってやった本を落とす、渡しては顔見て落とすを繰り返す女性は一体何者なんだろうか。着替えの入った大きなバッグを抱えて、理智はとうとう腹に据えかねてそう言った。
 「失礼しました、その・・・」
また本を落とした。
 「どこまで運ぶんです、これ」
 「え、ああ、いいです」
 「無理でしょ、持っていってさし上げますから、案内して下さい」
 「は、はい・・・」
彼女は論客の雰囲気があるくせに奇妙に素直に理智の言葉に従った。本はかなり重く、その上古い文献だった。三冊あるが、パッセカルトン仕立ての年代物だ。
 「こんな大事な本を落とすなんて、僕の顔ってそんなに変ですか」
 「いいえ、とんでもない」
 「そうですか」
話しかけても仕方なさそうだ。理智は彼女の案内に従って歩いた。たいした距離ではなかった。
 「ここは」
 「事務所です、私の」
 「ああ、そうですか」
 「どうぞ」
事務所の中には老若男女。二十人ほど詰めていた。理智の顔を見て、みな顎が外れる程驚いていた。
 「へ」
そんなに珍しい顔している覚えはない。ないはずだが、何なのだろう。そう思った時に理智のスマホが鳴った。着メロはよりによってさだまさしの「天然色の化石」だった。
 「はい、あ、サイトウサン。何・・・えーーーーっそんなあ・・・ちょっと待って僕だって名跡の・・・あれ、キレちゃった・・・あ、うそ、電池ないっ」←日本語である。
 「どうか」
 「電池・・・電源コード、しまったあああ、ホテルだ。スーツケースの中っ。ついてないっ。やっぱ髪の毛切るんじゃなかった・・・やな予感はしてたんだよね・・・」←日本語である。
 「すみません、ホテル・・・知りませんか、えーっと・・・」
渡されたパンフのホテルをしめしてこの近くのホテルがいいんですけど、と言ってみた。
 「ハイシーズンだから無理じゃないかな」
そう言われた。
 「では、多少離れていても、アルバートホール近くのは」
 「無理ですね」
 「参ったな、友達にもらった高価な楽器持っているから変な宿には泊まりたくないし・・・」
 「観光客」
 「いえ、仕事です。いうなれば、ドサ回り・・・」
 「ドサ回り・・・」
 「役者ですから、僕は」
 「役者、俳優・・・」
 「ノウガクシ、ともいいます。日本の仮面劇の、「能」の役者です。シテ方といって主役専門なんです」
 「え」
 「日本人ですよ、こんな顔してますけど。能楽師としての名前は七世錦木六郎といいます。七人目の錦木六郎、です」
 「ああ、ポスター貼ってあった・・・え、名跡だって言うからもっと年寄り」
 「ああ、継いだばかりなんです。去年。本当は三十代になってからのはずだったんですけど、先代の身体が思わしくなくて、早めの襲名をしました」
 「・・・あのポスターほとんど読めないんだけど、漢字とかやらで」
 「七世錦木六郎襲名記念公演・能「井筒」・仕舞・八島って書いてあるんです。井筒のシテをします。八島は宗本家のシテ方の人がつとめる手配になってますけど」
 「襲名公演本人様が宿無し」
 「そういうことですね」
にっこり笑ってそう言ったら、みなあきれていた。
 「英語話せるからって放り出したんでしょう、きっと。それで何とかするしかないでしょうし。いざとなったら仲間のホテルに楽器は預けて、僕は安宿って手も」
 「はは」
 「こちらの宿泊代金思い切りけちりましたからね、ダブルブッキングでもあったんでしょう。コーディネーターに連絡・・・電池なかった・・・忘れてたけど」
 「駄目じゃん」
 「いいわ、私の家にいらっしゃい。私、文筆業をしていますの、よろしかったらどうぞ」
 「えーっとお名前」
 「フィリッパ・ベングレーと言います」
 「すみません、世話になります。私は・・・本名は錦木理智といいます、まさとも・にしきぎ」
 「まさで」
 「いいえ、母がこの国の人なので、英国の名前はリチャードです。母はリシィと」
ざわっとなった。
 「日本では学生時代の友達はりっちゃんとかリッチーとか。漢字での名前が「りち」と読めるので」
 「あら、それでは」
 「この国の知人はリシィ、ですよ、その方が呼びやすいでしょ」
 「イギリスの名字は」
 「忘れました、母の旧姓は聞きそびれてます。今は・・・ヨークの・・・サーの称号のある人と再婚しているんですけど、クリスマスカード見ないと思い出せない」
 「あらそう」
 「この国で育ったことないですし、英語は会話スクールに通って覚えて」
 「ヨークの訛りだわ」
 「教師がヨーク出身だったので・・・母の記憶はこの間、再会するまでほとんどなくて、出会ったことなかったし」
 「え」
 「僕が生まれてすぐ離婚したそうですから。国際結婚だったし、毎週合うわけにはいかなかったから、片親の記憶なんてすぐなくなりますよ」
気まずくなったフィリッパは話題を変えた。
 「ああ、でも、打ち合わせしなければ、ならないの、それまで待って頂く事になるけれど」
 「音出してもいいなら・・・稽古でもします」
 「構わないわ」
 「助かります」
別室に通してやった。そこはフィリッパの名のみの書斎だ。広い空間がある。理智はまず、おおきなバッグを部屋の片隅に置いた。バッグの中から箱を取りだした。箱の蓋を開け、鼓を取り出す。それを携え、真ん中に座り、鼓を調整した。
 「えーっと・・・」
日本から旅立つ前に斉藤に習っていたところを思い返し、小鼓を構えた。興味津々で覗いているらしいが、構わなかった。独特の音がした。隅田川のだよ、と言って教えてくれた一節を打ち、先が解らなくなって、鼓を置いた。火鉢が欲しいところだが、そうも言ってられない。仕方なく、箱の上に乗せると、バッグの中から扇子を取りだした。

正座し、いつも通り、扇子を前に置き、心の中にいる観世親子など関係者の御霊に一礼した。扇子を手にし、井筒の仕舞を始めた。が、着替えたい、そう思って、部屋の隅により、着物に着替え、袴を身につけ、髪をまとめた。その様子をほぼ全員見ていたなんて知らなかった。日本の民族衣装を身につけ、扇子をもてあそぶ。持っていたウォークマンで一曲、聞いた。日本語の歌。その歌をつぶやくように歌う。「舞姫」という曲。日本語の響きの美しいものを選んでいれてある。歌詞を呟きながら、扇子を閉じたり開いたり、上げ扇をしたりする。扇子は何本も持っているが、この扇子だけ調子が妙に悪い。手を添えて、開いてみる。
 「舞姫、か」
ウォークマンを外し、扇子片手に独特の歩きをしてみた。白足袋が滑るように動き、舞い始めた。それは修羅ものの一節だった。力強い足拍子に見ていた全員が驚く。突然の謡の声にも驚いた。
 「頼政は・・・やっぱ太刀ないとなー・・・これ、代わりになんないかなー」
隅にあった甲冑の剣。手にしてみて、重さに驚く。
 「・・・これじゃ長刀・・・あーそーかー・・・エジンバラは巴だっけ。だったらこっち・・・ごめんねー、軍旗外すよ、ってこれ・・・ああ、いいか、あの人のじゃ」
外さないまま、旗棹にからげ、結びつけた。
 「失礼しますよ」
真ん中に行き、巴の舞を始めた。長刀を用いるとは言え、巴は女人だ。勇壮と言うよりも優雅でさえある。最後に構えたとき、止めておいた旗が外れ、ふわっと揺らめいた。
 「あれれ・・・外れたか」
軍旗を広げ、見る。
 「白い猪に輝く太陽、聖ジョージ・・それにヨークの薔薇か」
それをひとつひとつ撫でてみる。傍らには古式のイングランド国王の旗。それにリチャード三世の紋章が入ったパンフレット。
 「もしかして、ここリカーディアンとか言う人達の事務所、かな。へー石田のみっちゃんのファンクラブはないのになー、面白いなー・・・これサイトウサンに言うと変だ変だうっさいけどな」
軍旗を広げる。不思議な高揚感がある。そのまま、甲冑の元に戻した。それをずっと見つめる。もう一度、軍旗を広げてみた。
 「変な感じ。どっかで見た事あるような・・・ごめんねー、もう一度借りるわ、やっぱ」
納得出来なかった部分のために、軍旗を旗棹ごと手に取った。くるっと回して、足拍子、身を翻して巧みに操る。止めておいたはずの軍旗がはためく。最後に軍旗片手に合掌した。巴が跡を弔ひ給へ・・・と。軍旗を戻し、真ん中に正座する。肩で息をしていた。深呼吸を繰り返し、息を整えた。
 「足が変・・・飛行機の座りっぱなしがこたえたかも」
扇子を手に片手を添えて広げてみる。そして、閉ざし、片膝裁ちになって扇子を見る。

形見の扇より
形見の扇より
なほ裏表あるものは
人心なりけるぞや
扇とは嘘言や
逢はでぞ恋は添ふものを
逢はでぞ恋は添ふものを

突然の謡に一同は驚いていた。
 「いけね・・・思い切り声出しちゃった・・・」
扇子を前に置き、振り向くとドアに人が鈴なりになっていた。仕事は駄目だったらしい。くすっと笑って理智は膝でそちらに振り向くと師匠にするお辞儀をした。顔を上げて、扇子の前に手をついたまま、述べた。
 「お見苦しいものを見聞いただき、誠に感謝しております。ここを一時、貸して下さりまして、御礼申し上げます」
日本語で、のべ、その後英訳した。そしてまた頭を下げた。顔を上げたとき、全員がぽかんとしていた。
 「そんなに驚くことでしょうか」
ぶんぶん。
 「私の顔、やっぱりそんなに変ですか」
ぶんぶん。
 「あの、でしたらお話、伺いたいのですけれど」
こくこく。
 「あの・・・こちらに来て、お話して頂けませんか」
こくこく。
 「・・・いいから早くこいや。一体なんだってんだよ」
ちょっと腹に据えかね、理智はやや乱暴な口調にしてみた。
 「フィリッパー助けてよ」
 「馬鹿言わないでよ、何を話したらいいのよ」
 「だってえええ」


 「ああ、そんなに似ているんだ、へえーーー」
復元した顔の写真を彼らは持ち出してきた。
 「でも、この人より僕の顔、真っ平らですよ、ほら平たい顔・・・これ言うなって言われてた・・んだっけ」
 「東洋系が入ってるからちょっと違いますけど・・・雰囲気が似ているんですよ」
 「・・・そういえば、母は確かヨークの血筋だとか。この王様の姪だか甥だかの血筋だって」
 「そりゃ似ますね」
 「母方の祖父が行方不明のリチャードって名前の庶子の血筋にあたるとかいう噂があったそうですけどね、あいにくと名字知りませんけど」
 「・・・噂」
 「そんなんどこの土地にもあるよーな根も葉もないお伽噺でしょ、そんなもんですよ」
にこにこ笑って言うが、彼らは調べたいと言い出す。
 「母の事は知りません。知る必要今更ありませんから」
 「必要ないとおっしゃる」
 「ええ、私は日本のしがない役者ですよ、日本独自の演劇の。私の舞台はあなたがたには原語のままではおよそ伝わらない」
 「伝わらない、ですか」
 「宇宙人の言葉みたいなものでしょ。帰国してしまえば、英語も必要ありませんし」
 「そりゃまあ」
理智は謡本を取り出して、広げた。
 「これ、能の演目の脚本です。なんて書いてあると思いますか」
草書体の文字は読みにくい。
 「本音を言えば、一部読めないところ、あります。これ先々代が若い頃書き写したものなんです」
 「・・・はあ」
 「ここに書いてある意味を掴んで舞台で演じるのに、英語は必要ないですし。この国の事、思い浮かべることもおよそないでしょう」
 「そんな」
 「異文化ですから・・・でも、この王の為に一差し、舞いましょうか」
 「お願いできますか」
 「幼なじみの恋物語を・・・やってみます」

筒井筒、井筒にかけしまろが丈、
おいにけらしな 妹見ざるまに

くらべこし振り分け髪も肩過ぎぬ
君ならずして 誰かあぐべき・・・

背比べした私の背丈もいつの間にか伸びました、あなたを見ないうちに

長さくらべをした髪も肩をこしていき、あなたのためにだけ私は髪を結いましょう

 「そういう意味です」
一度二人は別れるけれど、女が身を案じる歌を歌っているときき、また二人は一緒になる・・・幼なじみの愛を謡った曲。
 「筒井筒の仲っていうんですよ、幼なじみの夫婦の事は」
 「それ・・・」
 「今度のロンドン公演でやります。僕には幼なじみはいませんけれど・・・この王の・・・后のために舞いましょう」
 「本当ですか」
 「想像出来るから・・・やってみますね、それから、旗、勝手に使ってすみませんでした」
 「いいえ、驚きましたわ」
 「すみませんね、勝手に使ってしまって。旗手の踊りじゃなかったんですけどね、偶然なってしまって・・・もっとも巴御前は木曾義仲の旗手みたいなものですけど」
 「トモエ・・・」
 「女武者ですよ、槍の名手だったそうです。甲冑をまとい、義仲とともに戦場をかけ、彼の死後、勇壮さに目をつけた敵方の武将の妻にさせられ、その家も滅んだ後、出家したとも、義仲とともに伐たれたとも伝わっている女性です」
 「今の所作は女性の」
 「能役者の大半は男性です。女性の入門は許可にならない家柄も多い。私の家も女人は舞台には立てません。趣味なら許可されますけど、面や装束は私の家は女人が身につける事は許されません。女人禁制解いている家もありますけど・・・元々神官の家柄で、そういうのは特に厳しいんです」
 「訳がわからないわ」
 「女にも神にも精霊にも怨霊にもなるんですよ、化け物にも当然なるし・・・」
バックのそこから箱を取り出す。桐の箱だ。
 「何か敷物貸していただけませんか」
 「ああ・・どうぞ」
彼女は古式のイングランド王の旗を渡した。戸惑ったが、それをカーペットの上に広げ、箱を置いた。紐を解き、蓋を開けた。
 「この面は私の流派では普通用いません」
女面が入っていた。
 「気に入って買ってしまったのですけど、使えない・・・使うとしたら、年齢が経験が足りない・・・」
 「普通の能面ではないと」
 「金剛の「孫次郎」と呼ばれる面です。別名・面影の面と。金剛孫次郎という能役者が若くして死に別れた愛妻の面影を写し取って彫り上げた、と伝わってます。その後まもなく孫次郎も二十八歳という若さでこの世を去り、愛の面とも言われてます。素敵でしょう」
理智はその面を手に取り、一礼すると、フィリッパに渡した。
 「コレも何かの縁ですし、御覧下さい。つけてみてもよろしいですよ」
 「さっき、何か、その」
 「面には魂が宿ると言われてますので、それに挨拶したのです、それだけですよ」
手に取って見ると、それは若い女の顔だ、言われてみれば。
 「若い人妻の顔ですよ」
 「裏は」
 「返してみてください」
裏返すとフィリッパは驚いた。目の穴が異様に小さい。
 「コレで見えるんですか」
 「いいえ。ほとんど見えませんよ。舞台の大きさは大抵検討がつきますから、面かけても何とかなります。たまに落っこちたりもしますけど」
 「落ちる・・・んですか」
 「はい」
それと本舞台の時は佩刀するんです、と理智は告げた。
 「役者として大恥をかいたときは自害して責任をとるために佩刀します」
 「こわい」
 「サムライの芸能ですから」
 「そんな世界にいるのですか」
 「おかしいですか」
 「いえ・・・」
ゆっくりと面を理智は箱にいれ、丁寧に紐をかけた。
 「これ、いつになったら使えるのか・・・これね、古美術商のところに行ったとき、あまり妻に似ているので衝動買いしちゃって。言うなれば、ホントに面影の面です。彼女、日本にいます。子が生まれるので、連れてくること出来なくて・・・代わりにといつの間にか妻が」
 「・・・そうですか」
 「ヨークで知り合ったんです・・・ミドラムのお城の近くで」
 「それは奇遇ですね」
 「日本女性で、しかも先々代の妹の孫で・・・血筋には問題ないと言われまして、すぐ結婚しました。役者の家は難しいですから・・・彼女にも不自由かけていると思います」
フィリッパは物静かなこの人の、先ほど見せた激しい舞が忘れられなかった。


翌日、ホテルに送っていくとその夜から彼はホテルに泊まれるようになっていた。
 「また鏡から出てきたりして」
 「やめてーーーっ」
何を騒いでいるのか、知らないが、楽しそうに見えた。
 「サイトウサン、同室」
 「ぎゃーーーーーっ」

 「オバケでも出るのかしら」
 「ねえ」

 「出るんだけどね」
理智はそう言って笑って通り過ぎた。
 「どんな」
 「頭割られて死んだ人の幽霊。素裸でいつも寒い、痛いって泣いてるの。最近あまり見ないけれど・・・たまーに出て来る。サイトウサンがよく見るんだよねえ・・・僕が髪の毛切ると出て来るからきっと関係しているのかも」
 「切らずにおいてあげたら」
 「いやですよ、名跡がだらしない髪型出来るわけないでしょ。この国にいるときは切りませんけど」
 「あら、なあぜ」
 「この国の人だからです、その幽霊」
微笑んで言う。どこか愛おしそうに。
 「そう」
 「その子の方が似てますよ、あなたの大好きな王様に。同じグレーの瞳で・・・右に背骨が曲がっているんです」
理智がそう言って、ホテルの奥に去っていった。フィリッパは呆然と立ち尽くしていた。
 「待って、あなたは・・・」
 「錦木六郎と申します。失礼」
優雅に会釈して去っていく。
 「違うわ・・・違う・・・でも、こんな事、誰にも言えないわ」
フィリッパの言葉を聞いていた日本の男が溜息をついた。
 「言っても信じないでしょうね、僕はずっとなんとかしてくれええと悲鳴挙げる羽目の人間ですよ、マダム」
 「は」
 「なんでも・・・あなたの王様に僕は今夜からご対面です、涙でそう・・では」
 「あなたは」
 「サイトウサン、ですよ、リシィの」
 「ああ、あなたが、サイトウサン」
 「おやすみなさい、マダム」
彼もまた奥へ去っていった。