鉄輪(かなわ)その7
グラスゴーで理智は髪を切った。肩まで届きそうな黒髪をばっさり切ってしまった。帰って来た理智を見て、若手達も師匠達も驚いた。
 「大丈夫かなー・・・」
 「あ、斉藤さん、ロンドンでは同じ部屋でしたよね」
理智はにこやかに同年配の鼓方に話しかけた。
 「ああ、そうだね」
 「よろしくお願いします」
グラスゴーからロンドンに戻り、ホテルに落ち着く。一同は一泊後、帰国するのだが、理智は一度ヨークに行ってから帰国するつもりでいた。

その翌日の朝の事だった。
 「理智さん、あのな」
 「何ですか、寝不足ですか、斉藤さん」
 「子どもがずっと泣いていて眠れなかった。鏡の中で・・・素裸のまま、座り込んで頭抱えて痛いって泣いてたんだよ」
 「あ・・・あれ、もう大丈夫かと思ったのにな・・・」
 「知ってるんだ」
 「知らないって訳じゃなくてーえーっと・・・なんて説明したらいいのかな、僕の髪の毛のソレはきっとその子どもが関係しているんじゃないかなーっと」
 「のんびりと言わないでくださいよ、あれは・・・」
 「幽霊は幽霊だけど、僕に憑いてる幽霊だから・・・やっぱ別室が良かったですかね」
 「・・・なんでそれを」
 「見えない人には見えないし、感じない人には感じないから大丈夫かと」
 「残念ながら斉藤君は見える質なんだよ・・・」
溜息ついて和泉先生が言う。
 「あ。じゃ・・・悪い事しちゃったかな・・・」
 「勘弁してくれヨーーー」
 「ごめんなさい・・・ヨークに行って何とかするつもりでしたけど、遅かったみたいですね・・・」
 「理智さんーーーっ」
 「すみませーんっ」
斉藤は浪目で詰め寄ったが、理智は苦笑していた。
 「僕から離れれば、もうあの子は出てきませんから大丈夫ですよ」
 「ホント?」
 「ええ、で、その子は悪いものですか」
 「いや・・・あの子どもは・・・違うね、なんだろうね、死霊って感じじゃなかった・・・」
 「あの子にエネルギー与えているのは、僕だと思いますよ」
 「まずいんじゃ・・・」
 「大丈夫ですよ、あの子はあれ以上の事は出来ないから」
 「理智さんの髪の毛には関わっているんじゃないですかーっ」
 「ですね」
 「さらりと言わないで。まったく」
何故か、さばさばした顔でいる理智に理解不能だ、と斉藤は言う。
 「兄に会ってきます。そうすれば、あの子も」
 「やっぱそっちに関わるんだ」
 「どうでしょう」
首をかしげてそう言う理智。
 「ひー、二度と理智さんとは同じ部屋には泊まらないからなー俺は」
 「そんなものですかね」
 「無理だと思うよ、普通は」
荷物をまとめ、理智はヨークへ行くことにした。スーツケースには着物一式と普段着が入っている。稽古用の古い唐織も詰めていた。


ヨークへ着いてすぐ母の家に行き、暫く世話になると告げた。そしてヨークミンスターへ行くことにした。
 「何もお仕事の格好で行かなくても」
 「ちよっとね・・・報告したいことがあるから、ある人に」
そう言って大聖堂へ向かい、中へ入るべく、受付を通ろうとした。司教が来ていた。
 「ご案内します」
王族にでも接するかのように至極丁寧に司教は申し出ていた。
 「お願いします。ご足労痛み入ります」
 「いいえ・・・」
そのまま、彼の人の霊廟へ赴く。理智はまた雪駄を脱いで、壇上に上がった。アルバローズを墓碑に捧げ、跪いて口づけする。
 「今度は何がお望みなのですか、答えて下さい。僕は僕で生きてはいけないのですか」
司教はいなかった。理智は唐織をまといつけたままだった。色入唐織。赤系の色が生地にある。若い女の役柄の時、身につけるものだ。四季の花々、紅葉が手まりの形の中に織り込まれたり、縫い込まれたりする豪華な品物だが、身丈が合わなかったため、今は誰も使わない。先々代の衣装なのか、詳しくは聞いていなかった。被衣の扱いの稽古をするため、師匠から譲り受けて使っている品物だ。裏生地はかなり薄切れており、絹糸で丁寧に糸を入れ、これ以上すり切れないように師匠の妻である人が工夫してくれた。それを頭からかぶったまま、理智は座り込んでいた。
 「やはり・・・兄に言わなければなりませんか、あなたも僕も言いたかった事を」
答えはない。
 「僕の頭上には未だ鉄輪がある。蝋燭をともし、胸元に鏡を下げ、人を呪い殺す人型を握りしめている・・・それが解ります。兄に会ったら、直接その姿をさらす事になるのです・・・あなたもお解りのはずだ」
手を組んで、額にあてがい、理智は言う。
 「あなたの恨み言も僕が引き受けなければならないのですか」
かすかに、そうだ、と言う声がした。理智は立ち上がり、呟く。
 「では、それを言いに戻りますね」
そして、霊廟から出ていった。
 「ありがとうございました」
司教に声をかけた。司教は暫く黙っていたが、口を開いた。
 「人を愛することをお忘れなきように」
 「それが出来ればどれだけ楽か・・・わかりません、失礼いたします。司教様もお元気で」
司教はかけるべき言葉が間違いではないように、と祈っていた。司教が今日は彼の、不思議な歌声は聞けなかった、それを惜しんだのは、その日の夜になってからだった。


東京の兄の家へ行く。訪問の日取りを尋ねると急遽休みをとり、兄は新しく買い求めた自宅にいた。事件の起きた自宅は解体工事をしているという。以前の家具がそのまま使われてあったりしたため、理智には違う家という感じがしなかった。
 「こちらでお待ちです」
通された応接室。兄はソファに座っていた。老けた感じがした。一回りは年上の人。ヨークにいた母に似ている。死んでしまった次兄も母に似ていた。理智の顔は父親にもあまり似ておらず、不思議に思ったが、母方の叔父に似ているらしい。
 「兄さん」
 「やっと帰ったか」
仏壇へはどうなのか、と態度で言う。
 「父さんの墓参りはしてきたよ」
その言葉の意味を悟り、兄は黙っていた。
 「あの女に手を合わせるつもりはない」
 「理智」
叫んだように聞こえたが、さほど大きい声ではない。
 「あの女はゆず兄さん達一家を殺した。許さない」
知っていたはずだ、と理智は言外に滲ませて言った。
 「理智」
 「あの人がやらなければ僕がやっていたよ」
 「おまえ・・・」
 「アンタは出来る人だからね・・・」
冷たい声だ。
 「父さんも僕には期待してなかったし、こんな家にいても仕方ないし・・・これ以上惨めになりたくなかったら、出ていくしかなかった」
 「おまえはそんなに劣ってなど・・・」
 「劣っているよ、心臓が生まれつき悪くて手術を受けて、いつでも一年は遅れていた。お兄様はお二人とも優秀だったのに、って何回聞いたか、知ってるの、アンタは」
 「理智」
 「元気になってもアンタみたいな背格好にはなれなかったし、頭だっていい訳じゃない。経営手腕だってないし・・・信用だってない」
 「おまえ・・・」
 「それでも結城でいる必要がどこにあるわけ、教えてよ」
 「おまえは私の弟だ」
 「それが何、何の意味があるのさ」
 「離さないと言ったはずだ」
 「迷惑だ。アンタなんかもう兄とも思いたくない。あの女と消えてくれれば良かったのに」
女性が入ってきた。
 「えっちゃん・・・出来れば席外していれくれないかな」
義理の姉の連れ子、悦子だった。まだ少女だ。
 「いやよ」
 「あまり聞かせたくないんだけどね」
 「知ってるわ。理智さんにして欲しい事があるの」
 「僕に」
 「そうよ、これを渡して欲しいの、ある人達に」
大きめの茶封筒だった。
 「えっちゃん、それは自分でやりなさい」
 「いいのかしら」
 「どうなっても僕は知りたくないけど」
 「なら、いいわ、一人で行ってくる。理智さんは早く帰った方がいいわよ」
 「そう・・・じゃ、また後で」
 「理智」
護が、兄が引き留めた。
 「何をするつもりだ、悦子も」
 「さあ、何かしらね」
悦子はそう言い、理智は兄の顔を一瞥していた。
 「ここに来られるかは解らないけれど」
そう言うと理智は帰って行く。その横を悦子があの茶封筒を持って歩いていた。護は何故か二人を止めようとはしなかった。覚悟していたのかも知れない。
 「警察に行くの」
 「つきあうよ」
 「ありがとう」
近くの警察署で悦子は収賄容疑や文書偽造関係はどこか、と聞いていた。
 「二課になるな」
 「案内して下さい」
 「どうぞ」
二人は二課に通された。
 「結城物産の横領事件についての証拠品を持って参りました。私は結城護の義理の娘、浅井悦子と申します」
義姉の連れ子で結城家とは縁組みしていないため、悦子は別姓を名乗った。
 「そちらは」
 「結城護の弟で、旧姓・結城、今は錦木、理智と言います」
 「失礼ですが、この書類の事はご存じでしたか、錦木さんは」
 「いいえ、初耳です」
 「そうですか・・・お預かりします」
二課の課長はそう言って悦子が持参した封筒を受け取った。
 「よく見つけたね」
 「おかあさんの部屋にあったのよ」
 「えっちゃん、君、実の母親を告発するつもりなのか」
 「そうよ、当然でしょ。ゆずさんは優しい人だったわ。やっと安らぎが得られると思ったら・・・あんな形でゆずさんも理智さんもいなくなるなんて冗談じゃない」
 「何があったの・・・」
 「おかあさんの再婚相手はみんな大嫌いよ」
 「まさか」
 「二度目の人、私をレイプしたの。その上、お母さんも殴る人だったわ。結城の今の人は・・・私に優しくしてくれた人をみんな追い出したわ、私の目の前から。許さない」
 「・・・ゆず兄さんは知っていたの、君のその虐待のこと・・・」
 「知っていて、トラウマのお医者さんを紹介してくれたの」
 「なのに・・・ホントは何だったの、病死じゃないんでしょ」
 「自殺よ、ゆずさんは」
理智は立ち上がっていた。茶封筒の中身を見ていた刑事は二人に静かに告げた。
 「特別背任、そして偽証罪容疑で結城護氏に逮捕状がでます。鑑識が立ち入りますのでお二人は・・・別の場所に移動した方がよろしいでしょう」
 「軽井沢に別荘があります。そこには会社関係の品物は一切ありませんので、そちらに行きます。当面の品物はあちらでも用意出来ると思います。悦子さんをそちらに送り届けますので・・・お願いします」
 「では・・・失礼」
悦子を伴って理智は歩き、一応、師匠の家へ向かった。


 「まあまあ、えっちゃん、どうしたの、そんなに泣いて」
 「義母さん・・・軽井沢の別荘までえっちゃん連れていってくれないかな、兄さんが掴まるんだ、特別背任で」
 「あの事、なのね」
 「支度してやりたいんだけど、女の子の事、僕、解らなくて」
 「仕方ないわね、買い物にいきましょうか」
 「休んでからにしたら、えっちゃん」
理智がそう聞いた。
 「今すぐ行くわ、変な事考えそうなの」
 「そうしましょう、すぐ支度してくるわね」
師匠夫人はそう言うと、着替えに行った。
 「理智はどうする、おまえは確か」
 「パリの公演に加わりますから」
 「とりあえずは休みなさい。ひどい顔しているぞ」
 「はい」
内弟子時代に使い、今ではこの家の息子の部屋として存在する部屋へ理智は去っていった。
 「ごめんなさい、錦木のおじさまにまで」
 「いいんだよ、構わない。しかし・・・理智も生の感情を叩きつけるとは・・・大変な事になるな」
 「おじさま」
 「護君は理智を手放す気は今もないからな。どんなことをしでかそうとも」
 「それは・・・いくらなんでもひどいじゃありませんか、理智さんには理智さんの」
 「それが納得出来ないんだよ、護君は」
 「そんな・・・」
 「過保護と言うのとは違う・・・ある意味、執心とでも言うのか・・・」
 「縛り付けるだけってわかってないのかしら」
 「そうだろうね」
着替えて来た師匠夫人と悦子はデパートに向かった。疲れているけれど、何かしていなくては落ち着かなかった。


 「まさか、実の母親を」
 「亡くなっているとはいえ、えっちやんも・・・」
 「恨んでいたなんて、思いたくない」
 「ゆずさんもおまえの事もえっちゃんは大事にしていたからな、義理の叔父とはいえ・・・」
 「知ってるけれど・・・こればかりは」
 「あの子は一生結婚しないと言った」
 「・・・そうでしょうね、恐怖でしかないのは、僕も知っていたけれど・・・何故、義姉はそれに」
 「お金で苦労していたのは知っている。だからといってやっていいこと悪い事の分別はあるものだ、と私も思っていた」
 「踏み出すなんて・・・信じられなかった。あの人がそんな」
 「下の子はどうするつもりだ、あの家は」
 「さあ・・・僕にはもう」
 「それはそちらの弁護士に任せるしかないか」
 「どーせ、すぐ出てきますよ、兄なら」
 「保釈金、か」
 「払えますからね」
そしてお金で人を雇って子どもを育てるつもりなのだろう。そんなことは解っている。
 「・・・こんなに生々しい感情・・・」
 「それはマイナスなことではないよ、理智。おまえが生きるための必要な事だ」
 「・・・実の兄を売って、実の兄を裏切って、ですか」
 「そうしなければ、君は自由にはならない。舞台にも立てなくなるよ」
 「それは・・・いやです」
 「ならば、決めなさい。錦木の子なのだから。理智、私はもう長くはない。だから襲名は急いだ。みな反対したよ、道成寺も披いてもいないのに、と」
 「押し通したのですね」
 「そうだ」
 「解りました。道成寺、稽古見て頂けますか」
 「もちろん」
 「ありがとうございます」
 「・・・海外公演の事は断ろう。今はここにいなさい」
 「はい」
 「稽古を見てまだ何かあるのなら、行くべき処に行きなさい。解っているね」
 「はい」


道成寺は大曲だ。様々な感情があり、様々な動きがある。作り物の中で着替え、面を変えることもある。蛇の衣装をまとい、恨みと悲しさでまたも鐘を滅ぼす女。ただひたむきに愛し、裏切られ、怒りの炎に身を任せる女。その舞をその謡を理智は続けた。
 「そこまで」
踊りの魔物に取り憑かれそうになってると判断し、錦木六郎は激しい口調で理智を止めた。
 「死ぬぞ、理智、そんな舞方をすると」
 「すみません・・・」
 「今日はもう道成寺は舞うな、謡うな、着替えなさい。これまでだ」
 「はい」
稽古場に崩れ落ちるように座り込んだ。暫く立てなかった。大曲だ、自分に出来るのだろうか。ふと見上げると鏡がある。舞姿を確認するため、据え付けたものだ。座り込んだ理智の隣にあの人がいた。
 「こんな遠くまで」
 「私は・・・そなたの・・・いや言っても詮無いな」
 「ヨークミンスターにはおられないのですか」
 「いる必要はなかろう」
 「確かにそうですね・・・ストーカーって解りますか」
 「・・・解る」
 「あなたもこだわりますか、兄上に」
 「それは・・・どうだろうな」
 「あなたはクラレンス公の」
 「復讐を誓ったよ、それがあの女でも兄であろうとも」
 「そしてあなた自身も血まみれになった・・・鐘に七巻き半・・・罪の炎」
 「ならそれも見ようとしよう・・・」
 「ありがとうございます」
理智は立ち上がって、彼の為だけに忠度の一節を謡った。
 「嫉妬の曲が聴きたい」
彼は突然そう言った。

鳥てふ、大嘘鳥の心して、
現し人とは誰か言ふ
草木も時を知り、
鳥獣も心ありや
げにまことたとへつる
蘇武が旅雁に文を付け、
万里の南国に至りしも
契りの深き志
浅からざりしゆゑぞかし
君いかなれば旅枕
夜寒の衣現とも
夢ともせめてなど
思ひ知らずや恨めしや

望み通りに砧の一節を謡う。
 「君いかなれば旅枕 夜寒の衣現とも 夢ともせめてなど思ひ知らずや恨めしや・・・」
彼の口から繰り返し、それが紡がれた。
 「兄上に言ってはならんと思っていたが、違うらしいな」
 「違う・・・」
 「火宅の門を出でざれば 廻り廻れども生死の海は離るまじや あぢきなの憂き世や・・・」
そう言って彼はかき消えた。
 「待っていたのか、直の知らせを・・・」
兄の死を他人の、しかも悪意ある人からの言伝てで聞いたあの人。
 「もうひとつ、あの人も疑った。僕よりもはっきりとした身体の、不自由さで」
鐘に七回り半、蛇体を巻き付けて滅びの炎をはき出す姫の名は皮肉にも「清らか」の意味を持っていた。裏切られて、泣いて炎の中、河の淵に沈んだ姫の悲哀の面が、脳裏に浮かんで消えていく。般若を使う場合もあるが、蛇の面を使う場合もある。ただし、蛇は人間性がまったくないという。理智は般若の面に決めていた。