確か琵琶とリュートの起源となった楽器は同じ物だろう。中近東の楽器が元になったらしいと言う。
ともしびを吹き消して恥じ入るように消え去る経正。消え去る訳にはいかない生身の身の上では、どうにもならない。
ヨークの安宿に泊まり、謡の本を開く。謡う訳ではなく、ただ眺め、その意味を掴もうとあがいているだけだ。鉛筆でその本に注意書きを細々と書き付ける。
理智はバックパックの中に兄が忍ばせた母の住所があったはずだ。それを取り出す。行くつもりもないが、住所を見つめた。
どうやらカントリーハウスか、一軒家に住んでいるらしい。訪ねるつもりもないが、ただ眺めていた。まあ、いいかとその紙切れをしまい込んだ。そして、鏡を見つめた。彼は・・・いた。
「行かぬのか」
首を振ると彼は微笑んだ。
「母御は待っておると思うが・・・」
また首を振る。英語が口から出ないのに。彼はその事情を察したのか、顔を曇らせた。
「それでも会うべきだと私は思うが」
彼は微笑んでいる。ナショナルギャラリーに似た顔があったけれど、それ寄りも端正で、穏やかな顔をしていた。
にっこりと微笑むと普段の彼とは思えないほどの魅力をたたえていた。花がほころぶようだ、と表現してもいいのではないか、と。
「ああ、そうか、アレだ・・・瞳を巡らせて一笑すれば百の魅力が生まれるとか言う・・・ものか」
「東洋の美姫の表現をあてはめるなど、そなたはおかしいな」
「どこでそれ・・・あ、そうか・・・僕の意識下にいるんだっけ、あなたは」
長恨歌を知っていてもおかしくはないよな、と思う。
「なーあなたは誰」
「そなたは誰だ」
その言葉で理智は黙った。そうだ、言い合っても仕方がない。彼は理智であり、理智は彼であるのだから。
「リシィ・・・」
その名で呼ぶ人を思う。長兄。でも理智は彼の元を離れることを望んだ。
彼が理智を育て上げたにもかかわらず。年上の未亡人と結婚した兄から理智は離れていった。
義理の姉が悪いわけではない。あからさまに財産目当てな態度。それを見てとるや理智は実家から離れた。
兄は理智にこだわり続けていた。待っても兄は理智の公演には来なかった。その時の演目は皮肉なことに「砧」だった。
帰って来ない夫を待ち続け、亡霊となりはてても恨み、愛した妻の物語。
「リシィと呼ばれるのか、私と同じだな」
鏡の彼はそう言った。小さく小さく押し殺した声で、理智は謡った。砧の一節を。この鏡の中の男に通じるとは思っていない。
羊の歩み隙の駒、
羊の歩み隙の駒
移り行くなる六つの道
因果の小車の
火宅の門を出でざれば
廻り廻れども
生死の海は離るまじや
あぢきなの憂き世や。
恨みは葛の葉の
恨みは葛の葉の
帰りかねて、執心の面影の・・・
「聞きたくはない・・・」
そうでしょうとも、と理智は笑った。黒い、暗い笑い方だった。夜は更け、理智はベッドに入った。
翌朝、宿を出て、ふらりとヨークの町を歩く。英国の春は寒く、理智は首の後ろにまとめていた髪を解いた。
「あれ、思ったより長いな・・・」
そうつぶやき、玻璃硝子とタイトルされた歌を口ずさみながら、歩く。
ぬばたまの黒髪・・・が肩近くまで下がっている。これでも切ってはいけないのかな、とふと思う。ルール違反のはずなのに。
一度ハサミを入れた後、舞台から落下してひどい打ち身を負った。戻って勤めたが、二週間は稽古も出来なかった。
それからだ、髪にハサミを入れる前に神社仏閣に詣でるようになった。
そうしていても、かなり短く切ったところ、今度は肋骨を骨折し、謡が出来なくなり、その後、短くすることは師匠から禁じられた。
縁起を担いだらしい。それでなくとも、舞台の上には魔物が住んでいた。そう言っても過言ではない。魔物か精霊か。それは理智には解らない。
マフラーをし、身を凍らせる様な風の中、歩く。ヨークシャーの森や丘は霜枯れていた。
「やはり会いに行こうか」
そう思い、兄から受け取ったメモを片手にヨークの町の郊外へ向かった。路線バスに乗り込み、近くの停留所で降り、その通りを目指す。大きな家が建ち並んでいる処だった。
近くまで来て、突然、足を止めた。見回し、そして、元来た道を辿る。
「訪ねても仕方ない」
日本語でそうつぶやく。後ろから「リシィ」という女の声がした。振り向くと初老の女が立っていた。
「リシィ」
理智は返事しなかった。声も出さず、何の感情もない顔でその女を見ているだけだった。
「忘れたの」
そう聞かれても、答えない。私はあなたを知らない、と手話で言ってみた。彼女は手話を理解しなかった。
「知らない」
日本語で言う。
「英語わかるのでしょう」
知らない、ともう一度日本語で繰り返した。彼女は泣いていた。日本語を彼女は理解出来なかった。理智は言う。日本語で。
「知らない、あなたは誰」と。
彼女は首を振り、ただ泣くだけだった。携帯電話を取りだし、どこかにかけた。日本の、長男にかけたらしい。
そして、彼女は事情を知って困惑した。理智はバスに乗るために歩き出したが、携帯の、彼女の携帯から兄の声がした。日本語での呼びかけだった。
「リシィ、いるんだろう、返事をしなさい」
彼女が携帯を差し出す。受け取って耳に当てる。
「何、兄さん」
「その人が俺たちの母親だ。暫く世話になれ」
「いやだ」
「リシィ、言う事を聞きなさい。英語が使えないのは知っている。あと二週間だけだ、彼女の元にいなさい。頼む」
「なんでそんなことしなければならないの」
「おまえ・・・」
「どうしても、いた方がいいの」
「ああ」
「なら、いるよ、でも彼女とは話さない。話はない。そう言っておいて」
携帯を彼女に返す。英語でやりとりしている。かなり興奮している彼女を冷ややかなグレーの瞳が見ていた。
師匠が生々しい感情を発露させる演目を選び取るわけがやっと解った。理智はそこで、つらかった演目の謡を謡った。それは葵上だった。
それ娑婆電光の境には
恨むべき人もなく
悲しむべき身もあらざるに
いつさて浮かれ初めつらん
唯今梓の弓の音に引かれて
現れ出でたるをば
如何なる者とか思し召す
是は六条の・御息所の怨霊なり
「リシィ、何・・・」
「是は六条の・御息所の怨霊なり・・・」
ふと笑ってみた。恨み辛みの言葉。
われ世に在りしいにしへは。
雲上の花の宴
春の朝の・御遊に馴れ
仙洞の紅葉の秋の夜は
月に戯れ色香に染み
はなやかなりし身なれども
衰へぬれば朝顔の
日影待つ間の有様なり。
唯いつとなき我が心
もの憂き野辺の早蕨の萌え出でそめし思の露。
斯かる恨を晴らさんとて
これまで現れ出でたるなり
思ひ知らずや世の中の
情は人のためならず
我人のためつらければ
必ず身にも報ふなり
何を歎くぞ葛の葉の
恨はさらに尽きすまじ
涙が出た。嫉妬に狂い、気位の高さ故に素直になれず、意地を張り続けて悪霊となった女の心情がほとばしって消えていく。
「これが休暇の理由か」
理智の言葉を母は理解出来ない。理智は母を見た。彼女の小間使いがやってきていた。
「奥様」
理智はその女性を見ていた。
「息子よ」
母がそういう。そして理智は母の家へと歩いて行った。その合間にも「葵上」の謡を歌い続けていた。
恨んで恨んで泣き続ける女の言葉を歌い続けた。その家は瀟洒な作りの屋敷だった。上流階級出身だと言う事はよく解る。
投資家でもある彼女は没落しかけた実家を建て直していた。ヨークの血筋を持つ貴族階級の女性だったのだ。
彼女は未婚のまま、理智達兄弟を産んだ。次男の死はこの異国で受け取ったと言う。今は彼女は同じ階級の男性と結婚していた。
その夫という人にも理智は挨拶の言葉を告げられなかった。事情は聞いているらしい。
「留学生の人に頼んでみますわ」
母がそう言っている。日本人留学生に来てもらってコミュニケーションを図るつもりらしい。いらない、とは言わなかった。
言う必要はなかった。母の言っている事は解る。けれど、母に言葉を伝えることは出来ない。やはり、どこかおかしくなってしまったのだ、自分は。理智はそう思った。
「英語は・・・聞いていてわかるのですか」
「でも、声には出せないんです。理由はわかりません。ですから、僕の言葉を伝えて下さい。あの人達に」
理智は日本人留学生にそう言った。
「多少間違っていても構いませんから。ニュアンスの違いがあっても構いません。大方伝わればいいのですから」
「でも、親子、なのでしょう」
「僕は母とは思ってません。ただの知り合いの女性、それだけです。記憶がないんですよ、母の記憶が」
「・・・そんな」
「覚えのない人に母親だから優しくしろと言われても困るんです。父の結婚相手の里江さんを母と思ってます。里江という人を「お母さん」と呼んでます。あの人を母と呼ぶ必要、あるのですか」
「それを伝えろと、言うのですか」
「出来れば」
「解りました・・・」
育ての母親が実の母親だと思っていると伝えると、実母は泣いていた。でも理智には何の感慨もなかった。
知らない外国人の女がわけもなく泣いてるとしか思えないのだ。部屋のに案内され、荷物を置き、鏡を見るといつもの彼が溜息をついていた。
「優しい人を知りませんか・・・本当の優しい人を」
そう言うと鏡の中の彼は目を伏せた。
「届かない思いを抱えてあがくのは苦しいだけ」
そうも言ってみる。
「それは解る・・・でもあんな言い方はないだろう」
「捨てられた、そう思ってもいい別れ方だった。イギリスという国への思い入れ、あると思うの」
鏡の中の彼は首を振った。
「この国にとらわれる必要はない。この国に絡め取られるのは・・・私の宿命だ」
「宿命」
「この身が、この心が壊れて果てても、この国の守りとなりたい・・・。それはいけない事ではない。私の役目だ・・・王の名を抱いたときからの・・・正しい事だ・・・」
「この地を守ると・・・言うのか」
当然だろうと彼は微笑んだ。万人を魅了する笑顔で。
「自由に生きるのは・・・そなたに任せた」
彼はそう言った。
屋敷は快適で、シャワーが止まる事もなければ、風呂の湯加減が悪い事もない。暖炉の火は暖かく、寒い夜を暖めてくれる。
理智に貸し出された部屋は二間続きの部屋で、片方が居間、片方が寝室になっており、寝室の横にはバスルームがあった。
座り込んで、暖炉の火加減を見る。薪能を思い起こし、苦笑する。羽衣を舞ったある神社の境内。
「珍しい事だったな」
羽衣の天女は無垢だ。それを舞う事はかなり珍しい。道成寺の本を取り出し、書き込みを見ながら、扇の上げ下げを気にする。
袴こそ持ってこなかったが、着物と長襦袢は持ってきていた。それに着替える。古い物で、痛みもあるが、バックパックに忍ばせるには上等の物は避けたかった。
着物を身につけ、舞扇を手に、立ち上がり、道成寺の一節を謡い、舞った。鐘に恨みがあるのだ、と白拍子は言う。そして蛇体となる。鏡の中の彼がずっと見ていた。
「それはいわゆる・・・」
「ストーカー殺人事件の後日談」
「そうなのか」
彼は驚いていた。
「自分のものにならないのなら死んでしまえばいい・・・そういう考え方」
「そうか・・・私も七回り半、しておけば良かったな」
きらりと彼の目が光った。彼は笑ってある台詞を口にした。
「淫靡なリュートの音色に合わせてとんだりはねたりけっこう小器用な立ち居振る舞い。それを俺だけがもともとこの姿ではそんな芸当思いもよらぬ。
色好みの鏡に気に入られる柄でもない。ああ、俺という男は。造化のいたずら、出来そこない、
しなを作ってそぞろ歩く浮気な森の精の前を、様子ぶってうろつき廻るにふさわしい粋な押し出しがてんから無いのだ、
この俺には・・・こんな感じに毒を吐いて、絡め取ればよかったのだよ、ある人を」
艶然と微笑み、彼は古い歌を歌ってみせた。
「その台詞は・・・リチャード三・・・」
「その先は言うな」
鏡の奥から輝く金髪が見えた。
「リシィ、おいで。どこに行こうというのだ、おまえは。離さないと言っただろう・・・」
金髪の男こそが七回り半の蛇体を持っているかのように見えた。その男は綺麗な顔をして堂々とした体格の王者の風格もあるように見えた。
「兄上」
背の低い、あの彼をその人が腕に抱き抱える。
「まだ寒いか、まだ寂しいか」
その囁きに彼は首を振る。
「もう何も・・・でも、兄上」
「解っている・・」
キスをし、彼の身体を離す。兄の腕の中にいる彼は全裸で、血だらけだった。
その血で兄の衣服も手も汚れていく。けれど、兄の腕から抜け出した彼は黒い衣服を身につけていた。
帽子もかぶっていた。指輪と胸にかかる飾りは金色に輝いていた。帽子につけられた特徴的なブローチ。それに用いられる石は全て宝石なのだろう。
「お休み、もう一人のリシィ」
彼はそう言ってまた微笑んだ。
「お休みなさいませ、陛下・・・」
日本語で理智はそう言った。英語でやりとりしている気はしなかった。鏡の彼に話しかける言葉はどこの言語なのか、理智は意識していなかったのだ。
続く
鉄輪(かなわ)・その2