鉄輪(かなわ)その3
母との会話は筆談になった。メモ用紙に言いたい事を書き付けていく方法だ。食事も母と母の夫と取ったが、一言も話さない理智に小間使いも戸惑った。 が、一種の言語障害だと説明してくれた母の夫のおかげで、段々慣れてきた。理智は母の夫という人と筆談で話すようになった。が、母親とは相変わらず話さなかった。 居間でくつろいでいても、話はなく、個々に勝手な事をしている。それで、母の夫に聞いてみた、ここで稽古して構わないか、と。彼は許可してくれた。

着物を着付けないまま、理智はあまり得意ではない修羅物の所作を始めた。 忠度の舞。地謡がないため、自分のペースで舞うしかない。世阿弥が作った修羅物は変わった作風が多くあり、戦人の嘆きよりも人間としての嘆きの方が色濃く描かれている。 二人の登場人物を一人のシテが舞う方法は能独自の物かも知れない。えびらに書かれたあの有名な歌を入れ込んだ謡を口ずさむ。母とその夫が驚く。
 「六弥太心に思ふやう・・・いたはしやかの人の、御死骸を見奉れば、その歳もまだしき、長月頃の薄曇り、降りみ振らずみ定めなき、 時雨ぞ通ふむら紅葉の、錦の直垂は、ただ世の常によもあらじ、いかさまこれは公達の、 御中にこそあるらめと、御名ゆかしきところに、箙を見ればふしぎやな、短冊を付けられたり、 見れば旅宿の題を据ゑ、行き暮れて、木ノ下蔭を宿とせば花や今宵の、主ならまし、忠度と書かれたり。さては疑ひ嵐の音に、聞こえし・・・」
 「口がきける・・・」
 「待ちなさい、英語は駄目の様子だ。これは心の問題だ。きっとそれは・・・君が原因だろう」
理智は夢中で舞の稽古を続けていた。どうしても、上手く立ち回れない場所がある。そこを繰り返し繰り返し続ける。疲れてやめた。
 「ここが上手く行かない・・・修羅ものと扱っていいのか、これは・・・」
そうつぶやく。もちろん日本語で、だ。息子は英語を話そうとはしない。それに母が悲しんでいた。

母の名前はセシリィと言う名前だった。それも後から知った。留学生の女性から教えてもらったのだ。 その留学生は女性だった。近くの大学、ヨーク大学に通っている女性だ。名前を江本悠紀子という。 彼女は自国の文明・文化などにあまり関心を示さない人だったが、姉の美佐子から結城理智の事を知っていた。
 「姉さんは結城理智って人は有名な役者さんだって言ってたわ」
 「どうして、有名だって・・・僕はまだ駆け出しの・・・」
 「姉さん、見たんですって、あなたのリチャード三世」
 「あれを・・・そう・・・演じた僕の方は覚えてないんだけどね、無我夢中で」
 「ラストシーンが印象的だったって」
 「そう・・・リッチモンドの役柄は確か性格俳優の・・・かなり癖のある人だったけど」
 「シェークスピアではリチャードは悪逆非道な王なのに、リッチモンドの方が魔物に見えたって姉さんが言ってたわ」
 「人間だから・・・勧善懲悪なんてあり得ない」
理智はそう言って微笑んでいた。
 「人間だから黒いところも白いところもある。諸刃の剣・・・そういう事でしょう・・・リチャードは普通の王だった、それだけです」
理智はそう言う。
 「悠紀子さん、この話、母にしますか」
 「します。いいですか」
 「構いません。母は知りたいと思ってますから、それから僕は能の役者です。現代劇やシェークスピアは得意ではありませんし、これから先はやることはないでしょう」
 「そうですか」
 「やりたくないと思ってます。僕には難しいんです。現代劇もシェークスピアも感情も動きもストレートに出していい演劇ですよね、僕にはそれが出来ない」
一度抑制した上での動き、感情しか理智には表現出来なかった。何故か解らないが。悠紀子は理智の母親と話し合うべく、彼女の書斎に向かった。

 「そう・・・あの子はそんな仕事をしていたの・・・」
彼女はネットで能楽について検索をかけてみた。
 「日本語のサイトばかりだわ」
 「ええ、海外での研究者とファンサイトはあります。それから・・・理智さんのお仲間のサイト、そして師匠筋のサイトもありますね」
 「師匠筋のサイトを英訳して読んでみるわ・・・あら、無期限休養中とあるわ、あの子」
 「はい。で確認を取りましたところ、今年の秋に「道成寺」という大曲を演じるそうです。それまでに修行をさせたいために休養させているらしいのです。あまり器用な方ではありませんので」
 「そう・・・」
 「それから・・・これはまだ内密なのですが、師匠の錦木六郎さんの養子になる話が進んでいるそうです。結城の家では反対のようなのですが、理智さん本人が乗り気の様子です」
 「結城ではなくなる・・・」
 「ええ、能役者の家の子になって跡を継ぐことになりそうだとか」
 「ネッドが離すかしら」
理智の一番上の兄の事をセシリィは口にした。
 「でも・・・ご本人は結城の家から離れるつもりなのは確かです。私の直感でもそんな感じがします」
 「どうして・・・あの子達が離ればなれになるのかしら・・・私には解らないわ」
 「理智さんは・・・もう一人でやっていける人です。それに・・・芸術家を理智さんのお兄様が理解出来るでしょうか」
 「それは・・・無理ね。価値観が違いすぎるわ」
 「奥様には言いにくいのですが、真ん中のお兄様が亡くなった事も関係しているらしいのです。兄弟仲がおかしくなったのは」
 「それは・・・」
 「師匠という方に電話ですが、直接、聞いてみました。横領の事は上のお兄様の妻という方が関わっていたようで・・・彼女の証言で横領罪が発覚したらしいのですが、 それが冤罪ではないかという噂が・・・それを晴らす準備中に亡くなったそうです。それで立ち消えになったのですが、理智さんは・・・義理のお姉さんを恨んでいるふしがあるそうです」
 「そんなこと・・・」
 「本当の事かは解りません。噂だそうです。あまり質の良くない噂なので、かえって理智さん、実家には寄らなくなってしまったそうで」
 「そう・・・難しい事ね」
 「それでなくても、結城の家は財産があります。理智さんはそうそうに遺産相続放棄をしてしまいましたけれど・・・」
 「放棄・・・そこまで」
 「ええ、相当こじれているみたいです。そのこともあってこちらに来ているのではないでしょうか」
 「ありがとう、色々調べてくれて・・・」
 「私はもう少し、理智さんと話してみます。奥様」
 「そうして頂けると助かりますわ」
 「では、これで」
悠紀子はその部屋から立ち去り、即座に下宿に戻ろうとした。
 「すまないが・・・しばらくこの家で暮らしてもらえないだろうか」
主の申し出に悠紀子は頷き、当面の荷物を取りに行く事にした。
 「ここで暮らすのですか」
理智は少し、驚いていたが、やがて聞いてきた。
 「大学の方は大丈夫ですか」
 「ここのご主人か奥様が送り迎えしてくれるそうです。あなたとの会話が成り立たないので手伝って欲しいそうです」
 「それは・・・お疲れ様で」
 「いいえ・・・私で役立つのなら・・・」
 「では、お願いしますね、悠紀子さん」
 「こちらこそ」
穏やかで静かな人。荒立てる事もない。けれども、理智は頑固なところもあり、決して譲らないところもあった。
 「・・・何故解ってくれないの」
セシリィの言葉を理智は居間のソファに座ったまま、聞いていた。奇妙に落ち着いていて、聞いてないのではないかと疑いたくもなる。 セシリィが飼っている小型犬を抱いて、それを撫でながら、理智は母の顔を見ていた。そして、ゆっくりと悠紀子の方に振り向いた。
 「母といより知人の奥さんという感じ方しか出来ません。親しみを覚えろと命じられても困ります」
日本語で理智はそう言った。それを悠紀子が英語に訳した。
 「悠紀子さん、完璧でなくてもいいんです、こんな感じ、で伝えて下さい」
 「はい」
悠紀子の返事に理智は頷いた。
 「どっちにしても、母と僕は通じ合えるかどうか、不明な親子ですから」
 「理智さん」
 「リシィ、でいいですよ」
理智はそう言って微笑んだ。悠紀子に。だが、母には仮面をかぶったままだ。彼がいつも舞台で用いる能面よりも表情がないように見えた。


理智に貸し出された部屋。そこに戻ると鏡の中にいつもいる彼が話しかけてきた。鏡の中は違う世界に見えた。
 「あの女性・・・気になるのか」
 「そうですねえ、女として意識してないと言ったら嘘になりますよ、鏡の中の御方」
 「そうか」
鏡の中の人は微笑んでいる。
 「いい傾向だな、そう思う」
 「いい傾向・・・」
 「そなたのする芝居には、恋物語はないのか」
 「あー・・・あるけれど・・・」
 「聞かせて欲しい」
微笑んで彼は言う。
 「あまり幸せじゃないのが多いけれど・・・班女でも・・・」

絵にかける
月を隠して懐に
持ちたる扇
取る袖も三重襲
その色衣の
夫の兼言
必ず夕暮の
月日も重なり
秋風は吹けども
萩の葉の
そよとの便りも聞かで
鹿の音虫の音も
離れ離れの契り
あらよしなや
形見の扇より
形見の扇より
なほ裏表あるものは
人心なりけるぞや
扇とは嘘言や
逢はでぞ恋は添ふものを
逢はでぞ恋は添ふものを

 
「それで、その人は添えるのか」
 「添えます・・・でも後日談が・・・悲劇ですよ・・・」
 「それは」
 「二人の間には梅若丸という男の子が生まれるけれど、夫は死んでしまい、子は人買いに掠われ、この女性は探して探して探し回るけれど・・・彼女が見つけたのは子どもの墓だったという・・・」
 「・・・そうか」
 「僕達の世界には物狂いものがあって、相手に出会えればその物狂いはおさまるけれど・・・後日談の「隅田川」の物狂いは本物にならざるを得なかった・・・十二歳くらいで死んでしまった我が子の看取りも出来なかった母親の悲哀が・・・あ」
鏡の中の人が顔を背け、口元を覆っていた。
 「何か」
 「何でも・・・いや、私にも子があった。十一歳で死んでしまった、そして看取れなかった・・・」
 「そ・・・そうですか・・・」

もとよりも
契り仮なる一つ世の
契り仮なる一つ世の
そのうちをだに添ひもせで
ここやかしこに親と子の
四鳥の別れこれなれや
尋ぬる心の果やらん
武蔵の国と
下総の中にある
隅田川にも着きにけり
隅田川にも着きにけり

理智は隅田川の一差しを演じてみた。
 「いざ言問はん都鳥・・・」
我が子を探して嘆き続ける母を思う・・・理智はそこで動きを止めた。
 「母に詫びなければ、僕は」
 「同じ名前だ、私の母上と」
 「え」
 「セシリィと言う。セシリィ・・・」
鏡の中の人はそう言って、懐かしそうな顔をした。四鳥の別れ・・・とはどんな意味があるのか、と鏡の中の人が言う。
 「仏教の世界では・・・親子は生まれ変わったら二度と出会えないんだ・・・だから、その・・・」
 「会えない・・・」
 「生まれ変わったら出会えない。それが輪廻転生の掟」
だから・・・僕は母ともっと触れ合わなければ、と思う、と理智は呟いた。
 「もしかして・・・この旅は僕を作り直す旅なのかも知れない。あなたとのことも」
鏡の中の人は微笑んでいた。端正な顔の、穏やかな人。

 「理智さん、日本からの知らせが届いたそうです」
朝、悠紀子が青ざめた顔で告げた。
 「何か・・・」
 「結城の・・・護さんの奥さんと長男が亡くなったそうです」
 「事故で、ですか」
 「それが・・・強盗殺人だとかで・・・」
 「え」
 「信じられないでしょうけど・・・本当なんです」
 「電話、借ります」
理智は日本にいる知り合いに電話をかけた。兄や親戚にではなく、かといって師匠の関係者でもない人に、であった。
 「そうですか・・・解りました。ああ、兄には帰国しませんと伝えて下さい。師匠の方には・・・はい、ああ、解りました・・・」
悠紀子がずっと見ていた。
 「悠紀子さん、母に義姉の事、知らせて下さい。僕は・・・ロンドンに行きます。海外公演をしている関係者と行動を共にしますので。師匠に僕の着物を送ってもらうよう、手配を頼みましたから」
 「お葬式とか・・・」
 「それには列席しません。しない方がいいんです」
 「甥御さんも亡くなられたのですよ」
 「それでも、行きません・・・だって、僕は・・・「鉄輪」の・・・僕には僕の頭上に五徳が乗り、胸元には鏡があるんです・・・だから行きません」
 「意味がわからないわ」
 「・・・あの女は結城の財産目当てで兄と結婚した女ですよ」
冷徹な声。
 「あの女の死を喜んでいるのに、葬式になぞ顔を出せますか」
 「ま、理智さん・・・あなた・・・」
 「ロンドン塔の王子たちの様な運命の子、それが死んだ甥ですよ」
そう言うと理智は部屋に戻って行った。


 「私は甥の死を願った事はなかった。あの子こそ、王だと思っていた」
 「だからあなたは・・・滅ぼしたのですか」
彼は鏡の中で目を伏せ、首をゆるりと振った。
 「滅んでなどいない・・・兄上の血筋は。ならそれでいい」
 「・・・まさか」
傍らの新聞には王室一課の写真が掲載されていた。ここに通じる血を残した女がいる・・・。
 「そういうことか・・・たいしたものだ、あなたというお人は」
彼はピンク色の花びらを手にしていた。
 「御覧、そなたが私にくれたものだ。行き暮れて・・・木ノ下蔭を宿・・・花や今宵の・・・」
 「どこで、その花びらを・・・山桜・・・」
 「ヨークミンスターで」
理智は立ち尽くしていた。
 「一声、謡を所望する・・・未来の錦木六郎殿」
 「承知」
理智はそう返事し、修羅能の一部を謡った。

血は?鹿の川となって
紅波楯を流し
白刃骨を砕く
世を宇治川の網代の波
あら閻浮恋しや
伊勢武者は
皆緋?の鎧着て
宇治の網代に
かかりけるかな
うたかたのあはれはかなき世の中に
蝸牛の角の争ひも
はかななかりける心かな・・・

生の世界にこだわり続け、ついに果てた武人の歌。言葉の意味はわからないはず。最後まで生にこだわる源三位頼政の執念・・・その声を母親・セシリィが呆然と聞いていた。殺伐とした謡に気付いたのかも知れない。



続く