聖橋。そこから眺め下ろすと神田川。理智は近くの能楽堂の公演を終え、荷物片手にたたずんでいた。大学生達が通り過ぎていく。和服姿の理智を珍しそうに見る人もいた。
「檸檬か」
レモン色の帯をした列車が通り過ぎていく。
「こんなところにいたの」
フィリッパがいた。
「観光ですか」
「ええ。何かあるの」
「いいえ、この川は…江戸のお城の外堀なんですよ」
「え、お城」
彼女は橋の下の川を見た。
「あの緑の森がお城です。今は皇居、天皇陛下のお住まいですが」
「皇居…え、宮殿なの、あれ…」
「ええ。昭和の天皇は植物学者でいらして、皇居の庭に手を入れることお嫌いであられたそうです。なるべく自然に近く保つようにと思し召しだったそうです」
「自然…」
「武蔵野の自然がまま、生きてますよ、皇居の森には。絶滅危惧種の昆虫や植物などがあの森には生き残っているそうです」
「まあ…」
「私達日本人は自然が怖いのです」
「それは」
「災害天国ですからね、ここは。大地震に火山の噴火、毎年上陸する台風…。水害も冷害も難でもござれで。雪害というのもありましたね」
「木づくりの家でよく…」
「湿気も多いんです。木は切り倒されても呼吸していてくれますからね、湿気も調節してくれますよ。僕はこの国が好きですよ」
「そう…」
「観光は団体ですか」
「いえ、一人旅よ」
「なら、私の家に来ませんか、この近くではありませんが…面白いところですよ」
「いいのかしら、突然」
「能楽師の家で、舞台もついていれば、来客はいつもの事ですから」
誘いに乗って訪れた家は普通の民家とは違っていた。
「こちらへ」
上階へ上がる階段を上るとそこは普通の家。
「靴は脱いで下さい」
雪駄を脱ぎ、理智はそれを整えると奥に声をかけた。
「悠紀子、今帰ったよ」
「おかえりなさい。あら、お客様」
日本語で出迎えた若い妻の姿。
「イングランドの、ほら、作家のフィリッパさん」
「ようこそ」
達者な英語。かすかなヨークの訛り。
「あら…」
「留学生だったんですよ、どうぞ」
彼女は微笑んでいた。
「太鼓の斉藤さんの奥様から生菓子いただいたの、あんこは大丈夫かしら」
「豆の菓子ですけど平気ですか」
「どうかしら…」
悠紀子が出してきた菓子にフィリッパは目を見張った。
「これがお菓子」
「ええ、寒椿を象った物です」
「食べるの、これ」
「ええ、何か」
「もったいないわ…」
「茶道のお菓子なんですけれど…お抹茶調度切らしているわ、お煎茶でいいかしら」
「いいんじゃない」
理智の言葉に頷いて悠紀子は煎茶を入れて出した。もったいないと言ったが、フィリッパは菓子に添えられた楊枝を使って口に入れてみた。
「おいしい…」
床の間にしつらえた黒い焼き物の花瓶に一輪だけ赤い椿が生けられていた。
「あれがそのお菓子の元になった花ですよ」
理智が指さす。
「そっくりね」
「寒椿…そういえば、悠紀子、君、お水取りに行くとか言ってなかったか」
「ええ。大学の仲間のお誘いなのだけれど」
「せっかくだから、フィリッパさん、連れて行ってくれないかな、僕は仕事なんだ」
「いいわよ」
「お水取り…」
「せっかくって…何かあるの」
「フィリッパの大事な王様はね」
「ええ」
「七百回目のお水取りが行われた年に生まれたんだよ」
「あら…区切りのいい…」
「七百回目?」
「そう七五二年の旧暦二月から始まったいわゆる鎮魂ミサだね、お祭りにみえるけれど本当は法事で…亡き人の為の行事なんだ」
「ええーっと」
「不断の行と言って一度もその行事は途絶えた事がないんだ」
「今年で千二百6…」
「そういうこと。せっかくだからね。偶然とは言え、異国の祈りだけど、どうぞ」
「ただし、人混みすごいけれど…それに女人結界があって外でしか見られないけれど」
「あら、そうなんですか」
「驚きますよ、きっと」
「本当に水のお祭りなの」
「そうです。これで春が来ます」
走る炎にフィリッパは唖然としていた。悠紀子はそっと造花の良弁椿をフィリッパに渡した。
「この花を持つと良いことがあるそうです」
「ありがとう…」
「人混み大丈夫ですか」
「ええ、なんとか…」
走っていく大松明、祈りの声、ざわめき。七百回目の時、この国はどうしていたのだろうか、ふと気になったフィリッパだった。
鉄輪・番外編・檸檬と寒椿