鐘・第八章
実在したなんて。あの少女が。名前は読めなかった。土方はその名前を知ってはいたが、沖田には伝えなかった。
ふらふらと、廊下をたどり、自室に戻った沖田。ぺたんと座り込んで、空に目をやる。屯所の裏の寺から鐘の音が響いた。
「晩鐘」
夕べの祈りのための鐘。キリスト教徒の間では当たり前であった祈りのための鐘。でも裏の寺は普通の仏教の寺院だ。僧侶の日常生活のための鐘。けれど、僧侶たちは祈り続ける人々だ。この自分と違って、命のために祈る人達。
「御姫さんが・・・いたなんて」
あの皇女はすでにいない。もう何十年も前に死んでしまった。殺されてしまったのだろうと思う。そう彼女は言っていたではないか。恨まれていると。
エラ伯母様はどうしていらっしゃるかしら
お姉様達もきっと、・・・・に送られてしまったのだわ。お姉様がこの国を離れるなんて、ありえないもの。
お母様、伯母様の事・・・
あの方が死んだ時、喜んだと言うから。でも、生まれ故郷にいるときは仲が良かったのよ。上の姉様のビクトリアと一緒に学んだものだわ。今となっては上の姉様が一番幸せね。あんな身分の低い男と、なんて・・・言ったりして、申し訳なかったわ。姉様もきっと心配しておられるわ。
不思議よ、あのふるさとの貧しい暮らしがとっても懐かしいの・・・。質素だったわ、何もかも。
その館は質素なもので、が、沖田の目には豪華な館に見えた。今まで訪れていたところは宮殿だった。が、沖田は豪華な部屋を目にする事はなかった。皇帝一家が暮らす部屋は豪勢な飾りはあまりなかった。皇帝の家族の部屋にしては質素だった。しかも、姉妹は二人ずつ同じ部屋を使っていた。彼には推し量る事が出来なかったが、この家族は豪勢な暮らしを心底望むような家族ではなかったようだ。ありとあらゆる贅沢をするような人々ではなかった。伝統に基づいた暮らしのために、一見そう見えたのだ。実際は身体の弱い子供達を抱え、国も衰退し、家庭内でも宮廷生活でも苦労は絶えなかった。
帝国の未来を案じる事がなくなっただけでも良いことなのかも知れないわ・・・
末の娘がそう呟いた。
冬のコートがいるわね、ここは寒いわね。あの子の熱はまだ下がらないのかしら・・・
母親は発熱した娘を案じている。そばには息子がほほえんでいた。
母様・・・今日はこの本を読んだの
年の割には幼い少年。病弱のため、身体も小さいのか。沖田はそれを見ていた。皇后の目にもうつった沖田の姿。が、この館に家族が幽閉されてから、沖田の姿は末娘以外目にすることはなくなっていた。
俺が見えないらしいですね、御姫さん。
そうね、黒い服の隊長さん。気づかなかったけれど、ふふ、今気づいたのだけれど、すぐ上の姉様よりもエラ伯母様よりもきれいだわ、あなたって。
男がきれいと言われてもうれしくありやせんぜ。
あら、もったいない。おかしな隊長さん。
御姫さんはなんで俺が隊長だと思うんですかぃ、不思議だったけれど。
襟元のスカーフよ。そのスカーフ、特別なのでしょ。そう見えたの。それ、絹じゃなくて?
そうですけどねぃ、外つ国の織り方でよくわかりやしたね。
とっても似合っているわ。隊長さん。そのすてきなサーベルも、よ。
サーベル。
「土方さん、サーベルって何でしたっけ」
「ああ、刀剣のことだろ。西洋ではそういうとか」
「そっか・・・」
これで、確実だな、と土方は思う。こいつの魂は時を旅しているのだ、しかも、外国の遙かな過去に。
「総悟、おまえ、万事屋を呼べよ」
「土方さんっ」
何をしているか、知っているのか、この男は。沖田のかすれた声は悲鳴に似たものを滲ませていた。
「俺は、俺は嫌・・・」
「嫌でもやつのところに行け」
「なんでっ・・・」
土方にしがみついて、その身体をゆすったが、土方は沖田は引きはがして言った。
「知ったことじゃねえんだよ、おまえの事なぞ」
「え」
もう一度、その台詞を聞くとは夢にも思わなかった。
「土方さんっ」
「いいから、あいつのところに行け」
「わかりやした、行ってきやす」
そう言って沖田は屯所から出て行った。
「やってくれたねー、あの馬鹿」
沖田にしがみつかれながら、銀時はそうぼやいた。新八も神楽も唖然としてそれを見ていた。沖田は銀時の腕の中から顔を上げようともしない。
「うちに行こう、神楽ちゃん」
新八がそう言って神楽と定春を連れて万事屋から出て行った。いたたまれなかった。
「何したアルか、サド丸が」
「さあね」
子供らの声が玄関から聞こえた。銀時は胸に顔を埋めたまま、動かない沖田の髪をただ、撫でていた。土方の馬鹿野郎と心の中でぼやく。本当ならこの子は土方にすがりたかったのだ。間に合わせの代理品でしかない、自分は。二人が出て行った後、銀時は沖田のために夕食を作り、沖田のために寝床を整えた。そして、彼を抱くために用意した・・・。