二人の人間が静かに庭を歩く。腕に抱えた少年の軽さに医師である男の顔はかすかに曇る。発熱している事にも。
「ヘンリー・・人がいる」
腕の中の少年が顔を向けた先。
「え」
生け垣のそばに人が倒れていた。二人は用心しつつ、近付いた。白い布から長い黒髪が見えた。
「この皮膚は…これ以上はなりません、陛下、ペストです」
彼は連絡を取り、次の言葉を続けた。
「防護服用意したスタッフをここに寄こすそうですが、陛下」
「何」
「用意がありますので、私は管理棟に戻ります。この毛布、外してはなりません、いいですね、これは医療スタッフとしての指示です」
「…わかった」
毛布を握りしめ、少年はその倒れている人のそばに座った。医師である男が去っていった。
「あの男は何者だ…」
倒れたまま、その人が絞り出した声。
「あなたはどちらの御方ですか…その話し方は…十四世紀頃の御方とお見受けいたしますが」
「私、か」
こちらを向いた顔。
「殿下…」
「私はそなたを知らぬ。が、そなたは私を知っている様だな…陛下と呼ばれていたな、あの男は何者だ」
「…弟君、ジョン殿下の子孫、ヘンリー七世です」
「ジョンの…面影は…君の方が…エドマンドに似ている」
「私は…そのエドマンドの…ひ孫にあたります」
そんな後の世代の者と出会う、それは薄気味が悪い。
「陛下、と聞こえた」
「…即位しましたので。簒奪、でしたけれど…」
彼は目を見張った。
「私も簒奪ですよ、殿下」
ヘンリーと呼ばれた男はそう宣言していた。
「私達はこの御方の前に姿を現すのは…」
少年をその男、ヘンリーは抱き抱えた。後ろに控えていた変な服を着た男達にヘンリーは合図を送ると、立ち去っていった。
「ま、待て…」
そう呼びかけた声。だが、ヘンリーは無視し、去っていった。ヘンリーの腕の中の少年も何も言わなかった。
そして、殿下と呼ばれた彼は悪夢の中を彷徨っていた。どこにいるのか、解らない。ここはどこだ、と聞いても誰も答えを返さない。真っ暗だ、と思った。真っ暗闇の中、一人で歩いている。どこにいるのか、どんな場所なのか、解らない。声を出そうとしたが、声にはならなかった。よろよろと辿り着いた壁に手をやる。自分の手さえ見えない。暗闇だ。なぜ、一人なのだ、と問いかけては、やめる。座り込んで回りを見ても、何も見えない。仕方なく立ち上がり、また歩き回る。
「誰か、誰かおらぬのか」
そう叫んだ。そして、目が醒めた。
「夢か…」
ベッドは知っていた品物とは全然違う様相を示し、シーツや毛布の感触さえ違っていた。半身を起こし、部屋を見回すと簡素な、簡素な部屋だと言う事に気付いた。
「そうだ、ここは…ここは…いったい何なんだ…」
薄気味が悪い。気持ち悪さが先に立つ。
この研究所には少年がいる。第一発見者にもなったあの少年だ。彼の治療は過酷なものだった。
「殿下の血液検査の結果、あまり良くないので、ちょっと我慢してもらおうか」
レイモンド博士と言う医療関係の長の言葉に少年が反対していた。
「二日だけ受ければ、おしまいだから」
「駄目です」
「駄目でもやるよ」
その治療は激痛が伴い、シーツを握りしめ、医者を睨み付けた。あの少年がそっと小さな手で、彼の肩を撫でていた。
「あと少しで終わりますから」
「君…君は」
「僕は毎日受けてます。もう一月になります」
「これを、か」
「はい」
理不尽だと思った。少年は嫌だと何度も泣いていた。初老の夫人を母と呼び、何度も嫌だと泣いていた。それでも、医者は、レイモンド博士は意志を押し通し、治療を施していた。
「何も要らないから、やめて」
「もう少し、私の息子でいて、ね」
「母様…」
母親にしがみついて泣き続ける少年。不思議な事だが、弟のエドマンドに何故か似通っているところがあった。冷徹な医者の顔。忌々しいと思った。二日で済んで、ほっとしたが、少年は変わらずその治療を受けていた。
「やめるわけにはいかないのか」
「命に関わりますから」
憔悴した顔で夫人がそう言った。彼女は泣きつかれて眠った少年をずっと見つめていた。そんなことがあったせいか、同じ人間なのか、と聞きたくなる。彼らは本当に同じ人類なのか、そこまで、彼は疑っていた。衣服から考え方まで全て違う気がしてならなかった。ここのスタッフ達は違う生き物に見えた。たとえば、魚や馬、そんな物にも思えた。当たり障りのない会話にもいらだった。空に飛ぶ鳥を眺めているような感覚だ。毒があると言われる植物の花のようにまがまがしく見えた。
「また、あの子は書いたのですか…」
金髪の青年があの夫人にそう話しかけていた。起き上がって彼はその二人の近くに寄った。
「中に入りましょう」
夫人がそう言った。彼の部屋のドアを開けて、彼女は微笑んでいた。
「どうぞ、オーナー」
「ああ、殿下、お久しぶりです、と言っても私の事は記憶にはないでしょうけれど…」
青年は夫人と彼の部屋に入っていった。
「許可も得ずに申し訳ありません」
夫人はベッドを彼に、殿下と呼ばれた男に指し示していた。
「失礼します」
彼はベッドに腰を下ろし、二人を見た。青年は椅子を引き寄せ、夫人にすすめ、自身も椅子に座った。
「これを、殿下…」
手紙だった。紙は見た事もない材質だったが、封蝋の仕方は中世のやり方そのものだった。
「これは…」
紋章指輪を用いての封蝋。
「見てもいいのか」
「はい。今年に入って同じ手紙、これで三通目ですから。内容は知っています。いつものものですから」
「いつもの…」
封蝋を解き、手紙を開く。写本の文字ではないかと思う程の端麗な文字が並んでいた。美辞麗句を省くお詫びが述べられ、騎士号と爵位の返上を申し述べた文章が続いていた。
「ガーター騎士も公爵の位も返上…」
「いつもの事ですよ、薬の副作用で精神に混乱をきたしますといつもこの手紙を書くんです、弟は」
「会ってみますか、あの子に」
夫人がそう言った。
「どういう事だ、爵位も騎士号も返上だと…ここはどういう仕組なのだ」
「仕組…ですか、説明は…その」
「君の身分は」
「国王でした…」
でした、と青年は告げた。
「どういうことだ…」
青年は答えなかった。別世界なのか…そう思ったが、誰も答えてくれそうもなかった。
夫人に連れられて、訪れた部屋。それは硝子張りのケースが置かれてある部屋だった。チューブや見た事もない機械に囲まれて、あの少年がそのケースの中にいた。白い寝間着を着て、ベッドの上に座り込んでいた。帽子をかぶっていた。
「殿下、これを」
夫人は包みを開いた。黒い髪の束。
「今朝方あの子から抜け落ちたものですわ」
「どうして」
「そういう薬を用いていますので。今、血液の病にかかっていますの」
少年は不思議な板きれを手にしていた。硝子ケースの横で、レイモンド博士が聞いた事もない言葉でギターを弾きながら、歌を歌っていた。
「それぞれの峠を越えていく…」
発音も発声も人間とは思えない声が彼の耳に届いた。
「それぞれの山を登っていく…そして空のように美しいものになる…」
「駄目だよ、口をきくんじゃない」
医者がそう告げた。
「ごめんなさい…」
少年の肉声が聞こえた。少年はベッドに潜り込んでしまった。ギターを置くと医者はある扉の奥に一度姿を消し、不思議な服装に着替えて、硝子ケースに入り込んでいた。処置を施す彼の顔は緊迫したものだった。
「リース夫人、いつもの用意お願いします」
ケースの中の少年を見て彼は愕然としていた。出血。吐血だけではきかない。見る見る寝具が血に染まっていった。彼はそのへやから飛び出した。
「あの子は…死ぬ、のか」
手紙を見る。
「あの少年の筆跡ですよ、それは」
あの青年だ。廊下に立っていた。
「明日にはまた本を読んで遊んでいることでしょう」
「まさか、そんな…」
翌日、あの部屋に行ってみるとあの少年は膝に本をのせ、読みふけっていた。熱心に読みふけっていたせいか、彼の方には一度も振り向かなかった。
「何故…」
ここの人達は何者なんだ。化け物にしか思えなかった。認識している世界では少年はいつ死んでもおかしくない状況だった。なのに、もう本を読むまでに回復していた。薄気味悪さが背筋を凍らせた。それにあの青年に書き送った少年の手紙。形式こそ中世の物だったが、紙が違う。見た事もない紙だ。事態が飲み込めない。ガーター騎士の称号も公爵の位も返上するという手紙。その地位はこの世界では意味がないのだろうか。意味がないなんて、そんな馬鹿な事は起きるはずがない。もしも起きたとしたら、それを無意味にしたのは誰だ。死にかけている人間を驚異の速さで回復させる手立てを持っている不気味さは何なのだ。この世界の人間達は…化け物。化け物にしか思えなかった。彼らは何も教えてくれない。青年の態度も少年の母親の態度も奇妙さばかりが目立っていた。
ベッドの中で休んでみたが、気味悪さばかりが先だって落ち着かなかった。
「私の意志は無視か、説明してくれ、どうしろというのか、ここで、私に何をさせようと言うんだ…っ」
叫んでも、きっと誰も聞いてはいない。起き上がって、彼は部屋の中を見て回った。
「これは…」
鞄。そして衣服がある。
「この部屋の中だけで、何が解ると言うんだ、もしかしたら…外にいる人間は違うのかも知れない。ここの連中ではなく、他の人を見る、そして…この場所がどこなのか、自分の目で確かめる…それをするのもいいのかも知れない…」
心を落ち着かせて彼は部屋を見ていた。くくり付けのタンスや棚を開く。衣服がある。鞄がある。そして…靴もブーツもあった。
「こんな薄気味の悪いところにいられるか、化け物の相手をする気はないぞ、私は」
鞄に衣服を詰め込み、ブーツを履き、ベッドの上の毛布をマント代わりにした。外套も手にし、帽子を掴んだ。ブーツもあり、それを履いてみた。サイズはぴったりだった。不思議な事に衣服も靴も彼にほどよくフィットしていた。彼はそして鞄を手にそっとドアを開けてみた。
「簡素な…」
鍵もかかってはいなかった。回りを伺い、彼は出ていった。ドアをいくつか抜けると外だった。森があり、野原があり…庭があった。誰もいなかった。太陽が輝いていた。彼は静かに出ていった。門にも見張りはいなかった。
「歩いて行けるものかな」
そう思った。それでもいいと思った。野原を歩く。徒歩だけではどこにも行けない気がしたが、この世界に馬がいるとは思えない。
小道をたどり、歩いて行くと見た事もない建物が建ち並んだ小さな村があった。が、人影はない。その村外れの水飲み場で一口、水を飲み、また歩き出した。ふと見るとある家に馬が繋がれていた。
「すまないが」
「どうぞ」
旅行者に無料で貸し出す馬とは気付かなかった。それを借りた。またがった感覚で鞍も鐙も上質だと思った。その馬は大人しく、清潔だった。
「食事…愚かだな、私は」
自嘲しながら、彼は進んだ。馬は従順で、よくならされていた。飛ばすと城跡が見えた。
「え…」
その城を見て、この世界とかつていた世界はどこかで繋がっているのではないかと気付いた。あの青年宛の手紙の事もある。
「ここは…私が生きていた世界の…」
はるか未来。そうとしか思えないほど城は崩れていた。
「いいか」
城から離れ、また馬を飛ばす。村から出ないように、と決められていたはずの馬だと言う事を彼は知らなかった。だが、それほど綿密な管理下にあるものではなかった。マイクロチップなどは埋め込んでなかった、という事だ。それを彼は知らない。研究所のスタッフも知らない。森に入って、彼は枯れ枝を集めた。火をおこす術は知っている。火をおこし、そのそばに座り込んだ。
「…さて、どうしたものかな、あの老人とは言葉が通じなかったな…」
聞いた事のある単語がいくつかあったが、大まかな感じしか解らなかった。村の看板も文字の形が変わっていて、正しい発音になっているのか解らない。
「参ったな、言葉が解らない…文字も読みこなせない…異世界…いや、村には教会があったな…ああいう教会は…私がいた世界にもあった…」
ここは異世界ではない。どこか通じる物がある。
夢見る化石・1