柊 
蔵は残っていた。家屋は全焼と言うほどではないが、燃えたため、取り壊されていた。その蔵の前に花壇が整えられ、樹木が植えられていた。喫茶・柊と書かれた看板。広瀬はあの事件の場所を購入したのか、と驚いていた。キーと音がして扉が開いた。白髪交じりの男が掃除道具片手に出てきた。
「こんにちは」
会釈する彼は愛想がよかった。
「あの、ここ…」
「ああ、本家の事情ご存じなんですね」
「ええ、本家って」
「私は二代前の分家なんですけどね、弁護士がやってきて跡取りの要くんも行方不明なので処理を頼まれたんです。中にどうぞ」
開店前の喫茶店は静寂の中にあった。
「蔵の中も始末して、いろいろ大変でした。私は要君の祖父の弟の子なんです、いとこ半って感じですかね」
「どうして…」
「父は北海道で一財産築きましたが、負債でみんななくしましてね、そんなときに連絡があったんです。父はもうないし、私と妹だけ。本家の土地全て売却したんですが、宅地の方は売り手がつかなくて、この通り駐車場になってます」
「よくこちらに来る気に」
「子供も独立しましたし、女房にも先立たれて夢だった喫茶店を開くことにしたんです」
「高里の事は…」
「親身にしてくれた広瀬先生ですね。ありがとうございました。葬儀の時は私の方も立て込んでまして、ろくな事出来ませんでした」
不信感がつのる。
「薄気味悪いと言ったのは妻です。私は事業を始末するのに忙しくて本家どころじゃなかったんです。なんとかしなくては…と思っていたところで妻が事故死して…もっと落ち着かなくなってしまった」
「まさか…」
「あの子はどこかで生きているんですね」
「え」
「そう思ってます。死んだなんて思ってません。どこかで会えたらよろしく伝えてください」
不思議な事を彼は言う。淹れてくれたコーヒーは学生街にあった喫茶店と同じ味がした。
「柊って…」
「ええ、大学の近くにあったでしょ、あのマスターが私の師匠なんですよ」
「確かもう閉店した…」
「花壇の樹木も、コーヒーの味も名前もまんま譲り受けました」
行きつけの喫茶店。懐かしい。


広瀬はこの喫茶店に入り浸るようになった。マスターはあれから一切広瀬とあいさつ程度しか言葉を交わさず、黙々と仕事をしている。素朴な焼き菓子とコーヒー、それにクラシックの名曲が流れる古臭い喫茶店。どこからか評判をきいてやってくる客もいたが、マスターの態度はどの人にも同じに淡々としていた。ランチタイムには日替わりのセットが供されるが、食事のメニューはランチタイムのものしか扱わない。マスターが一人で切り盛りしていたが、最近はマスターの息子もカウンターに立っていた。その息子がランチの担当をしていた。
「ああ、広瀬さん、これどうぞ」
その息子が豆まきの前日に柊の枝を差し出した。
「お守りにしてください」
常連客の何人かに枝をプレゼントしていた。
「とげには気を付けて」
そう言うと彼は元の位置に戻って行った。蔵を改装した喫茶店は落ち着きのあるインテリアと観葉植物、ルネサンス期の絵画の複製が飾られてあった。そして店内禁煙の文字。息子という人に喘息の持病があるため、最初から店内禁煙だった。


目が覚めて、起き上がると雪が降っていた。戸を開けると寒気が舞い込んできた。慌てて綿入れを着こんで、戸を閉じた。埋火をかきおこして暖炉に火をともす。それから昨夜仕込んでおいた鍋を囲炉裏とも暖炉ともつかない暖房具の上に置き、戸棚からパン種を取り出し、灰の中に埋めた。戴の冬は厳しい。十時は寝具の中で寝返りを打ち、それからあくび一つした。
「今日も雪か」
「おはよう」
「あれ、今日は私じゃなかったか」
「ゆるゆるでいいでしょう、こんなことくらい」
オンドルの家の床は温かいが、一段高くなっている。そのオンドルを使ってもまだ寒い時もあり、広瀬はギアナに行く前に行ったヒマラヤの山岳民族の家にあった囲炉裏もどきを思いだしながら中央に設置し、煙突をつけた。
「綿入れ着た方がいいですよ、今日も厳しい」
野菜と肉を入れ、それに少しの香辛料、塩だけで味付けした汁とナンに似たパン。それがその日の朝飯。

「コーヒーが飲みたいなあ…」
「ああ、それはある」
二人で暖を取りながらのんびりとした朝食をとる。宮殿のある山の一画に市井の人が暮らす小さな屋敷がある。二人が望んだのは一般人と同じ住まいだった。それには難色を王は示したが、二人とも民のためと言って譲らなかった。特に十時が頑固だった。ほんのわずかだったが国境のない医師団に所属していた経験から来るものらしく、頑として譲らなかった。研究室は別棟にある。住まいとは別にしてある。危険な薬剤を用いることもあり、その方が安全だった。
「さて、また液体燃料のやりますかね」
「こんな粗末な環境でよくあそこまで作れましたね」
「消毒用アルコール作るつもりだったのに…」
「何か間違えたんですか」
「そうらしい…そういえば、柊って喫茶店覚えてますか」
「大学のそばの…閉店したと聞いてますけど」
「高里の親戚があの家の蔵改造して同じ名前で喫茶店開いていた」
「おや。知りませんでした、行けばよかったな」
「もうあの事件の事は禁忌になってました、親戚の人も近所となかなか馴染めなかったらしい…」
「遠くにいたんでしょ」
「北海道から来たらしい。あいつの祖父の弟の子、つまりあいつの父親のいとこ」
「近いんですかね」
「分家して間もなく夜逃げしたこともあったとかで、疎遠になっていたみたいですよ」
「それじゃ、高里君が知らなくても無理はない」
「コーヒーと柊の樹が懐かしいな、と思って」
「夢にでも見たんですか」
「そういうことです」
広瀬は苦笑していた。時々話し方が元に戻ってしまう。悪くない暮らし。民のために今も痩せる思いをする高里。本来の彼の姿に何故か、ほっとする。

「先生―こんにちはー」
「噂をすれば、なんとやら。ちゃんと皆に告げてきたんだろーな、高里」
「それは、その…」
その返答に広瀬は溜息をついた。黙って抜け出ることが多すぎる。政府高官の自覚があるのかないのか、一瞬戸惑ってしまう。
「もー。なんの用だ」
「漣の王がコーヒー豆くれたんです。でも、僕にはどうやっていいのか」
「コーヒー…」
「聞き覚えで炒ってみるか」
「え」
「お前の親戚が教えてくれた、コーヒーの淹れ方。喫茶店のマスターしている」
「誰でしょう」
「確か高里道彦さんとか」
「父のいとこですね、たしか北海道の」
「北海道の家とか土地を引き払って本家継いだことになってる」
「じゃあ、僕のあの家」
「家屋は壊したが蔵は改装して喫茶店。雰囲気が変わっちゃっていてな」
「そんなに変わりましたか」
「柊の枝よくくれたな、豆まきの前に、そのマスター」
「先生」
「白い小さな花が咲くんだよ、柊って」
「花咲くんですか、あれ」
「ああ、知らなかったのか」
「そうだな…何かおまえみたいだ」
「ここにもあるのでしょうか」
「聞いてみたらどうだ」


「とげどけ…僕みたいって…あ、花のことか…え」
とげのある葉に白い小さな花。
「柊がどうした、嵩里」
「先生が僕みたいだと…」
「憎らしい男だな、あれは。私もそう思う」
「主上…」
香りがある。どこかで嗅いだような…。
「きんもくせい…だ」
似たような香り。けれど、花はつつましやかだった。
「どういう意味で言ったのだか…」
「先生は理科の先生でしたから」
「よくわからんな」
「今日も実験してたみたいですよ、派手な音が聞こえましたから」
「爆発か」
「かなり危険な実験らしいんです。でもどうしても三か月の間にバイオ燃料の増産システムを完成させたい…ってわかりませんよね」
「なんだそれは」
「あの燃える液体ですよ、増産して暖房装置に使えるようにしたいとか」
「ほう…」
「あと、リンゴの品種改良もすると言ってました」
「面白い男だな」
「味が良くなれば生食用の輸出もできるって言ってました」
「何かあったのか」
「苗を漣に送ったそうです。漣王は農夫でしたから」
「楽しそうだな」
「出来ることをするだけだ、そうです」
驍宗はその言葉に驚いたが、顔には出さなかった。
「変な男だな」
「知識が豊富ですよね。でも本人は…価値はないと言ってました」
「冗談。かなり潤ったぞ、あの二人のおかげで」
「ええ…」


「これ、なんですか」
机の上の紙にある方程式が書き込まれてあった。
「エネルギー係数だよ、アインシュタインの…理論にもある、教えたはずだぞ」
「ああ…でもこっちのは、複雑ですね」
「核反応システムの物理方程式だ、別名「悪魔の方程式」ともいう。なんとなく思い出してな」
「それって」
「原爆の方程式だ、手っ取り早く言うと」
「怖いですね…」
「こっちでは必要のないことだろう」
「理科の教師って…」
「俺は化学、ばけがくが専門だが、中学の教員免許は全部こなさないと受からないんだよ、高等部は化学専門で取得したけれど、な」
「そうだったんですか」
「二つ持ってると就職楽だからな」
苦笑している広瀬。
「おかげでこちらで仕事に困らんが…爆発は…謝らないとな、王に」
「また家改装したんですね」
「ここの冬は厳しいからな。暖炉よりは囲炉裏にしてみた。ヒマラヤ式に煙突つけてみた」
「ヒマラヤ…」
「シェルパ族の家にあるものと同じやつだが、煙突付けないと肺をやられる」
「先生、ギアナの前にいろんなところに行ったんですね」
「おかげで借金めいっぱいあるんだが、踏み倒してしまったな」
「え」
「国産最高級車が三台は買えるかもしれん」
「それはひどい…」
「働いて返すつも…あ、カメラ、ギアナに置いてきてしまったな」


雁の麒麟が写真集をもってやってきた。
「また蓬莱に行ったんですか」
「土産。これ買ってきた」
緑の風景に一本の赤い傘が広げて置かれてあった。
「広瀬…遺作写真集…赤い傘」
奥付を確認すると後藤の名があった。ギアナで発見されたカメラと残された遺品の中から見つけ出された写真による写真集とある。結局、死亡したものとされたのだろう。何枚か風景写真の終わりに必ず赤い傘があった。裏表紙には富士山で撮影された黄色い傘をさして微笑んでる広瀬の写真があった。富士山の頂上の火口を背景に黄色い傘をさしている。著者のギアナ前に撮影された最後の姿と説明されてある。ギアナで見つかったカメラのデータには人物は十時を一枚撮影したものを除いて誰一人撮影されておらず、赤い傘だけ印象的な写真が何枚も残されていたという。
「先生…」
呼び出された広瀬は簡素な服のまま入室してきた。
「実験室から直接で、申し訳ない」
ここの服は余分なきれがひらひらしていて危険だと言い張り、広瀬本人が直してしまっていた。農民の作業着のようで、宮殿の人間には芳しくはないが、広瀬は構わない。
「また簡単な服着てんな」
「延台輔におかれましては…」
「いらねーよ、それよか、これ」
机の上の写真集に広瀬が驚く。後藤の名を認めて苦笑した。
「しっかりしてんなー後藤先生も」
「ちゃっかり、かもな」
雁の麒麟・六太はそっけなく告げた。
「こんなの撮ったかなーよく覚えてない」
「赤い傘…」
ふと気になったのか、泰麒が言う。
「ああ、おまえだよ、これ」
広瀬はそう告げた。
「赤い傘がいいって言ってたろ。そういえば思い出した、ヒマラヤの…登山家が妻と子と登頂したことあってな、本にしてたな」
「子守傘の話ですね、懐かしい」
「亡くなったんだよな、その登山家。赤ちゃんだったあの子、大きくなったろう…ああ、とっくに大人か」
「先生、これどこですか、裏表紙の」
「富士山の火口だよ」
「こうなってるんですか、驚いた」
写真の中の風景はどれも珍しい。
「王にお見せしたらどうだ、高里」
「えっ」
「お前は写ってないように見えるが、これはお前の写真集でもあるから…俺は見る必要はないし、手元に置く必要もない。あるとしたら、裏表紙だけだな、切り抜いちゃおうか、めざわりだろうし…ああ、カバーになってるのか、切り抜いて別の紙あてがっておくか、絵でもかいて」
「邪魔するぞ」
驍宗がやって来ていた。伏礼をしようかと構えたが、彼は押しとどめた。
「何やら面白いものがあるそうだな」
「ええ、主上、お手元にどうぞ」
広瀬が写真集を差し出した。
「高里要のために撮影した写真集です」
「それは蓬莱の…」
「お納めください」
広瀬はそう言った。
「いいのか、この赤い傘は」
「それは台輔にお聞きください、裏表紙は切り取っていただきたいところですが」
驍宗が一目見て笑った。
「いらぬ。これを切り取ったら、この本は形をなさない」
「ありがたく思います」
「いや、よくぞわが国の麒麟を守ってくれた、と感謝している」
「微力でしたよ、およそ役立たずで、かえって台輔にご迷惑を」
「先生…」
「過ぎたことです。では、私はまた実験に戻ります。床暖房の設計があと少し、ですので」
「ありがたいが、無理は」
「心得ておりますよ、主上」
軽く一礼して彼は去って行った。驍宗は伏礼は儀式以外、広瀬・十時に求めることはなかった。